般若心経を生きる・・・宮坂宥勝⑦
因みに後の翻訳家の多くは中国の人であるが、支謙は大月氏すなわち中央アジアのトルコ・イラン系民族であり、羅什は同じく中央アジアの亀茲(くっちゃ)の出身で、父はインド人である
12:00分、宵祭りの神事がすべて終わりました。チョチョマ♬の囃子でキリコは各村への帰途につきます
2016年7月30日、山耀会でキリコ運行をした際に収録したものです
玄奘が渡印した7世紀半ばごろ、インドではすでに密教は隆盛期におもむいていた
子供の頃は、午前3時を過ぎることもあり、キリコが村に帰ると夜が明けたこともあった
だが、彼は唯識哲学を学ぶことを目的としていたので、密教に関心がなかったのか、密教にまで手を伸ばす時間的な余裕がなかったのか、密教経典は訳出ししなかった
尊利地子供キリコ(漆塗りに金の飾り物)
心経がマントラの(真言)を主題としたところの、いわばマントラ経典すなわち密教経典だということを最も強く意識して、正しい解釈を与えたのは、前にも後にもおそらく空海だけであろう
里浜組キリコ浮き字「瑞雲満」、後ろ浮き紋「左三つ巴」
その著「般若心経秘鍵」は全容を紹介する紙幅がないが、日本人の理解した心経として極めて重要な意味を持つと思われるので、その要点を示してみたい
小田屋中組キリコ浮き字「隔世感」、後ろ浮き紋「下り藤」
まず、心経は大般若菩薩の偉大な心(フリダヤ)すなわち真言のさとりの教え(大心真言三摩地法門)である、と説く
月夜の祭りは珍しい
そして、般若心経の「般若心」については、巻末の「羯諦羯諦云々」という真言は偉大な心髄の真言(心真言)である
祭りを終えて一番チキネ(苦しい)かったのは、尊利地の上までキリコを担いで帰ることであった
だから、この心髄の真言という意味合いから「般若心」という経題がつけられたのである、と端的に述べている
それを奮い立たせてくれたのは、笛・太鼓・鉦の祭囃子であった
次にまた、ある論者が心経は大般若経の必要(かなめ)を略出したのであるから、その意味で「心」と名付けただけだという
24:24分、尊利地浜「白山神社幟」に帰還
そこで、これに対して答えて云う。竜に蛇の鱗がついているようなもので、顕教である「大般若経」と密教であるマントラ経典すなわち心経とを混同してはいけないと。むろん、この場合、心経は竜、「大般若経」は蛇に喩える
キリコをたたむ前に子供たちと村役の方で集合写真です
翌31日は本祭りで、午前9時、宮司は独り御仮屋へ向かい、朝事と呼ばれるご挨拶の祝詞を奏上する
午後3時、御仮屋に神職、区長、氏子総代らが集い、御神輿おたちの祭典をあげる。その後、ショウグリバへ出て御神輿を海に向かって一列に安置し、神事を執り行った後、総社である住吉神社へ向かい祭典を行った後、各村社へ帰還する。かくして祭りは18時頃に終了する
青文字は、1993年11月号「プレジデント」より
to be continued









