般若心経を生きる・・・宮坂宥勝④

孝謙帝の天平勝宝7年(755)に心経一百巻の書写があった。天平宝字2年(758)8月の淳仁帝の勅命に「聞くならく、魔訶般若波羅蜜多(心経)は、これ諸仏の母なり。四偈(般若波羅蜜多咒)などを受持読誦せば、福徳をうること思量すべからずといへり云々」とある

総社の中川宮司が祭礼をつかさどる

さらに天平宝字7年(763)にも心経一千巻の書写が行われた。宝亀5年(774)5月の光仁帝の勅命も同様で、諸仏の母である般若波羅蜜を除災招福のため万民に読誦させるとある

人足衆は腰を下ろしたりして祭典を見守る

平安・鎌倉期の心経解釈

平安時代全期を通じても心経は盛んに読誦、写経、供養が行われている

お互いに年を取ったが、まだまだこれからだと思う

が、最も注目すべき存在は、弘法大師空海(774~835)である。空海は、その詩文集「遍照発揮生霊集」などをみても、しばしば心経を書写し

供養していることが分かる

昨年まで浜辺で執り行われていた「渚の神事=シオグリ」、今年はグランドで執り行われました

空海は、心経の註解書「般若心経秘鍵」を著した。これは古今の心経の核心に迫るものとして頗る注目すべき著作である

祭典の間、各キリコでは掛け合い太鼓が披露され、祭りを盛り上げる

これに対しては覚鑁(かくばん・1095~1143)の書いた「般若心経秘鍵略註」他、江戸時代までに50部という多数の註解書が現れて今日にいたっている

打ち手はヒーローである

その後、鎌倉時代以降、心経に関する書物は枚挙に遑ない。その主なもの、特色あるものとしては、禅宗系では臨済宗の開祖栄西(1141~1215)、曹洞宗開祖道元(1200~1253)には、心経に関する著作はないが、いずれも入宋して大陸の禅風を受けただけに、心経を重用したことが窺われる

この方は、輪島市内から来たと話されていた

臨済禅では鎌倉建長寺の開山である宋僧の蘭渓道隆(1213~1278)に「般若心経註」がある。彼は「心経とは大道なり」という

打ち終えてしたり顔の青年、アッパレ(^_-)-☆

室町時代の一休宗純(1394~1481)の「般若心経解」にも冒頭で「この教は則ち自心をさしていふなり。文字に書きたる経をもとめなば是則ち愚痴の心なり」とある

カメラを向けるとステキな笑顔で答えてくださいました(#^.^#)

江戸時代の盤珪永琢(1622~1693)の「心経鈔」にも「経とは自心なりと知るべし」とあり、大神咒以下の四つの咒名について「咒陀羅尼は

唐の言葉にして総持と云うことなり。畢竟、心の名なり」と説く

御神輿を待つ御仮屋のテント

白隠慧鶴(1685~1768)は「般若心経毒語註」を著した。略名を「毒語注心経」といい、広く流布した

前ヒカエ縄役の女子2名

臨済の禅家は心経を心を説く経典だと解していたことが分かる

キリコと御神輿がグランドを回り始めました

青文字は、1993年11月号「プレジデント」より

to be continued