般若心経を生きる・・・宮坂宥勝①(名古屋大学名誉教授)

二六二文字はなぜ人々の心を捕らえたのか

禅的理解もあるが、「真言の不思議」にこそ庶民はひかれたに違いない

玄奘三蔵が「般若心経」を訳出したのが六四九年。その訳本がわが国に伝わったのは飛鳥時代のこととされる

23:27分、旧南志見中学グランドに集結した4本のキリコと4基の御神輿。2本の忌竹に名月

今日に至るまで、心経は数多の註解書が著されたのみならず、一般民衆の間に広く流布され、親しまれてきた。それは心経が、単なる「空の哲学」ではなく、一切の苦を除く悟りの世界への手順を明らかにしたものだからであった

23:28分、御神輿とキリコが到着する寸前、南志見川が注ぐ左岸に立てられた10.8mの柱松明が点火された

もとは神職が持つ提灯の火を移して用いた

御嶽山と「般若心経」

般若心経、詳しくは仏説魔訶般若心経。略して心経という

末広形に包んだ松明部分に3本の御幣串が三方に挿されている

本文が二六二字よりなるところの最も短い経典である。それだけに、今日、心経は宗派を越えて信仰の対象となっている

御幣の紙片が舞うさまは神秘的である

柱松明には4本のヒカエ縄が四方へ張られている

今夏、筆者は信州御岳山の登山参拝をした。この修験の霊山は、古来からのあらゆる宗教の複合体である感を深くした

その綱に大勢の人が繋がり引き合い、山側か海側へ引き倒す。山側なら豊作、海側なら大漁、今年は海側に引き倒された

宗教の原点である御嶽山を知らずして、日本の宗教を語るなかれ、といっても過言ではないだろう

以前は(小生が子供の頃)御神輿が山側の長いヒカエ綱の下をくぐるまでは、柱松明は引き倒せないのがルールであった

ところで、この山に登るほとんどすべての人が各所の霊場で声高らかに唱えるのは、心経なのである

御幣は縁起がかつがれて争奪の的である。争奪したものは自分たちのキリコに取り付け持ち帰り、家に飾ったり、田んぼに挿し立てたり、船に立てて豊漁を願ったりする

心経は、現在宗派によっては唱えない向きもあったりするが、正直言ってある意味では国民的なお経だといえよう

紅蓮の火の玉

わが国に仏教が渡来して以来、心経は常に読誦、講讃、書写、供養がなされ、多くの人々の信仰を集めてきたのである

子供の頃は、御幣争奪で毎年けが人が出ていたように思う

心経は中国では記録によると、十一本程、漢訳されたようである。現存するものは、唐・玄奘訳「般若波羅蜜多心経」一巻、他一〇巻(省略)

往時は沖に小舟を待機させ、取った御幣を奪取されないよう、船に乗せていくものがあったという

中国で、同一の経典が各時代にわたって多数翻訳された例は、他にはない。各本相互に若干の相違はあっても大同小異であることは、この経典がすでにインドにおいていかに流布したかを物語っている

近年は松明に取り付くものは少数で寂しくなったものです

現存しないが、大月氏国(おおげつしこく)の支謙(3世紀前半)が「般若波羅蜜咒経」という題で心経を翻訳したようである。したがって3世紀ころまでには心経の原型は出来上がっていたと推定されている

取り付ける苦労のわりには、あっけない終わり方である

青文字は、1993年11月号「プレジデント」より

 to be continued