若心経を生きる・・・加藤湘堂⑭
ついでにいうと、写経を普及するために鉛筆でもいい、ボールペンでもいいという写経会があるが、鉛筆やボールペンで書くと、どうしても集中力がなくなる
区長や宮総代らは羽織袴姿で拝殿に入るが、御神輿人足らは縁側で待機し祭礼を見守ります
やはり筆で一点一画書くほうがよい。私たちは年に2回の写経会を行っているが、そのとき、いい紙に書くようにしている
里中組キリコ責任者のS・N君(同級生)と里浜組キリコ責任者
いい紙だと書き損じないよう一生懸命になるからである。書きあがったものは寺に奉納するが、個人で写経した場合でも、自分の檀家寺に納めればよい
宮司が衣冠姿で着座、その左右には狩衣姿の禰宜、助勤神職が坐し参列する
3年前、大阪や京都から参加した皆さんは、これだけの沢山の狩衣や袴羽織姿の人が祭りに臨むのを見るのは初めてと、感激していた
そこまでいく途中の段階においては、半紙に練習するという過程もあるが、半紙に書いたものをそのまま捨てることができなければ、それを寺で護摩に焚いてもらうこともできる
約20分の祭礼の間、待機する人足衆
最後に、ただ真似るだけでない、自分の書を書くにはどうしたらよいかについて述べる
輪島高校同級生のT・Y君とM・Iさん(写真削除)
真似から入らない大家はないという言葉がある。書でも絵でも彫刻でも、型に入って型から抜けるというのが理想だが、人間には、最初に習ったことが晩年まで抜けないことがある
22:49分、奉納花火が打ち上げられる
初めは時代の古いものや、あるいは先生のものを真似ていくが、先生のものを習い、先輩のものを習ううちに、型の中で溺れてしまうのである
22:50分、南志見浜への渡御のため、住吉神社を出発
これはよくない。しかし、次元の高い問題なのだが、型を学んで、型から抜けるというのは、なかなかできるものではないことも事実で、自分のものを自立するだけの才能がなければ、真似だけに終わってしまうことが多い
花火に見惚れる子供キリコ人足衆
あるいは、よく亜流ということがいわれるが、始めから真似でない我流の字を書いても、自己満足的なもので終わってしまうことがある
これは避けるべきだろう
地区のキリコが、4基の御神輿を中心としてお供をして御仮屋へ向かう
真似でない自分の書を書く
良寛や会津八一や高村光太郎は、あれだけの余人を超えたものを書いたというのは、やはり天才である
先頭のキリコをクモノスバライ、次はサキドモ、御神輿の後をアトドモ、殿をアトオサエという
歴史に遺るような素晴らしいものをつくるためには、最終的には、天から授かった才能が必要であると、私は思う
忍は昭和42年からキリコは出していない
よく出藍の誉れというが、古来、努力によって師匠を超えた人はいる。なぜここに私が「努力」をつけ加えるかというと、努力を続けていくうちに、個性というものが出てくるからだ
担いでいた頃は、こんなにゆったり花火を見ることは出来なかったように思う
その人の個性というのは、隠しても隠しても、隠し通せるものではないし、またつくるものではない
小生が小中学生の頃は、里がキリコ5本、小田屋5本、尊利地3本、合計13本のキリコが出ていた
やればやるほど、その人の個性が出て、やがて、真似ごとではない自分の字が生まれてくる
キリコ世話番に不幸があると、1年間はキリコに触れない、3年間はキリコ宿ができないという決まりがあるので、本数に影響が出ることがある
天才というのは10%が才能で、90%が努力であるというようなことをいう
南志見のキリコは蝋燭火を用いていたので、内部の明かりがユラユラと揺れ動き、ナカガミの浮き字が文字通り浮かんで見え、格別の趣があった
最終的には才能であると思うが、努力を続ければ、自分のものが生まれてくることは確かである
現在はボンボリの一部を除いてバッテリーあるいはLED灯となり、風情は半減したといわざるを得ない
私の場合も、真似ごとから入って、初めは古典、名品にそっくりの字を書いていた。しかし、何十年とやるうちに、だんだん自分の字が生まれてきた
蝋燭を使用していた頃は、キリコを揺すった際に、蝋燭が倒れナカガミが燃えるということがしばしばあった
青文字は、1993年11月号「プレジデント」より
to be continued















