般若心経を生きる…宮坂宥勝③
二六二文字はなぜ人々の心を捕らえたか
小野妹子が持ち帰った写本
心経のサンスクリット写本は、わが国の法隆寺に伝えられる。インドはもとより中国でもー敦煌文章を除いてー現存しないこの写本は、伝えでは推古帝15年(607)に聖徳太子が隋に派遣した小野妹子が持ち帰ったという
往路に囃す「デデンコデンデン」
同級生の宮総代が御神輿を先導する
8世紀初頭あるいは8世紀後半の書体とみられるが、かつて来日したフランスの仏教学の泰斗シルヴァン・レヴィ博士が7世紀に遡る写本だと判定したのにしたがいたい
ぼんぼりの霧吹き、提灯の竹ザサ、上ダシの絵、ダシ紙の貼り換えは村の中学生が担当した
いずれにしても、世界最古のサンスクリット語原本の写本であることには間違いない
このキリコは、田舎から東京へ出て風呂屋で成功した先人が寄贈したもの
玄奘訳心経がわが国に請来されたのは、いつかは定かではない。が飛鳥時代の道昭(629~700)ではないかと考えられる
祭りの費用をねん出するため、村内の各家を回って廃品回収や、米や小豆などの寄付を集め、お金に換えたものだ
わが国で荼毘に付されたことで知られ、また各地で土木工事を行った
小生の子供の頃は、キリコが13本、御神輿5基が練り歩いた
白雉4年(653)に入唐し、親しく玄奘に師事して、唯識・法相を学び、斉明帝6年(660)頃に帰国した
最盛期には(大正時代)25本のキリコが繰り出されたという
その厖大な請来経典の中に心経が含まれていたのではなかろうか。奈良法興寺(もとの飛鳥寺のちの元興寺)に禅院を建立し、法相宗の初祖になった
キリコは担がなくなって久しい
元興寺の智光は三論宗の立場で「般若心経述義」を著した。これはわが国における最初の心経註解書として注目される
担がなくなると自ずと掛け声が失われた
ついで、玄昉が入唐して天平7年(735)に帰国し、一切経五千余巻を請来した。その中に心経もあった可能性がある
気を合わせなくてもカタネ棒につながっているだけでいいのですから
というのは、玄昉以後、急速に心経の書写、研究が盛んにおこなわれるようになったからである
総社の鎮守の森に月明かりが見えた
玄昉が帰朝してから住した奈良の海竜王寺では、当時から心経の書写、納経供養が行われた
「隔世感」の浮き字
伝弘法大師筆という隅寺心経なるものがある。隅寺は「すみでら」または「ぐうじ」と読み、海竜王寺の別名である
キリコ祭りが盛んな時代に比べ隔世の感がある
何といっても、日本遺産に指定されているのですから
青文字は、1993年11月号「プレジデント」より
to be continued











