般若心経を生きる・・・高田好胤⑩
すると一人の人は、足を触った人であったのでしょう、「柱のようなものです」と答えました
暫し見惚れていました
耳を触った人は、「象は箕(み)のようなもの」と言いました
修験者にとっての聖地の中の聖地
尻尾を掴んだ人は、「箒のようなものだ」と答えました。お腹を触った人は「太鼓のようなものだ」と
狭隘な谷です
「いや、壁に似ている」と。また背中を触った人は、「大きい机のようなものだ」と
彼方此方から水が注ぎこんでいます
頭を触った人は「大きな甕のようだ」と答えました。また、牙を掴んだ人は「犂のようなものだ」とそれぞれがそれぞれに答えました
雨天時や雨後は立ち入らないことです
最後に鼻を掴んだ人が「大きな縄のようなものです」と答えました。それを聞いたみんながドッと笑いました
激流と化すのでしょう
そのとき王様は「これは目の見えないこの人々だけの問題ではない」と。すべてこのように、各々が自分の経験に基づいて、自分の判断が正しいとのみ思い込んで、主張し合っている、お互い私たちの姿であると、さとされました
穏やかな顔ばかり見せることはありません
これは涅槃経の中に出てくる説ですが、世に「衆盲 象をなでて各異端(おのおのいたん)を説く」といわれる喩です
荒れ狂うこともある
そうです。私どもは十は十ながら、自分の計らいをそのものにおっかぶせて、それが正しいその存在の有様だと思い込んでしまっているのです
唯一の標識
「利益」と書いて「リヤク」と読む
私たちは見ることができ、聞くことができ、語ることができます
前鬼ブルーに吸い込まれてしまいました
しかし喋らなくてもいいことは喋り、見なくてもいいものばかり見て、聞かなくてもいいことばかり聞いて暮らしている私たちです
六根清浄「眼・耳・鼻・舌・身・意」
真実の何を聞くことができますか、見ることができますか、喋ることができるでありましょうか
少なくとも水行しているときは離脱しています











