般若心経を生きる・・・高田好胤⑨

現在、私どもが読誦しています般若波羅蜜多心経は貞観23年(西紀649)に玄奘三蔵が翻訳された経典です

前鬼ブルー(コバルト色)が罪や穢れを落としてくれます

私は小学校五年生の時、この寺に小僧として拾っていただいた、何もわからない時だから、何気なく師匠の唯識の教えを聞かされてまいりました

神聖な場所のひとつです

もしこの唯識佛教のお導きを頂戴していなければ、私は「かたよらない心、こだわらない心、とらわれない心、ひろくひろくもっとひろく、これが般若心経、空の心なり」と、この言葉で般若心経の空のお導きを頂戴することはできなかったと思います

荘厳の「垢離取場」

唯識佛教のお勉強をなさりたい方は、いろいろな著書が出ておりますけれども、太田久紀著「唯識三十頌要講」、また「凡夫が凡夫に呼びかける唯識」、そして横山紘一著「唯識とは何か」、多川俊映著「唯識十章」等々、唯識教学に関する著述が、このところいくつか出版されています

大きな岩が乗っかっています

この唯識の教えの中に、先ほど申しました「遍計所執性(へんげしょしゅうしょう)」という言葉があります

水で浸食された河岸

この「遍計所執性(へんげしょしゅうしょう)」というのは、私どもは遍く、十のものは十ながら、全部自分流におのずと解釈し、その解釈に執着し、それに基づいてつまり自分の価値観、先入観でしか、ものを聞くことも見ることもできない、それが私どもの認識活動であるということです

声をかき消してしまう水の音

このことに気づかずにいる私どもであります

飛沫となって注ぎ込んでいる

自分でこのように見よう、聞こうと思わなくとも、おのずと自分のうちに積み重ねている、ため込んでいる過去の経験、それによって培われている人柄、人格等に基づいての認識の見聞覚知でしかできない私たち人間の間違いぶりであるを知らねばなりません

最深部は2㍍ほどあるかな

お経の中に次のような話が出てきます。一人の王様が家来に命じて、この国の目に見えない人たちをみな集められました

水紋

目の見えない人がたくさん集まってこられました。その人々の前に象が引き出されました。その人々がそれぞれ自分で象に触れました

波紋

王様はその目の見えない人々にお聞きになりました。「あなたが今自分の手で触れて、ああこれが象だとおわかりになったと思うけれども、その象はどんなものであったか」と

磐と水の競演

青文字は、1993年11月号「プレジデント」より

to be continued

座右の書の一冊として残しています