ダイトレⅠ「二上山」で大津皇子の墓を訪ねた。謀反の罪を着せられ刑死した大津皇子とは?
大津皇子には大伯皇女という母が同じ姉がいた。兄弟の両親は天武天皇と大田皇女で、大田皇女は妹が鵜野讃良皇女(後の持統天皇)の同母姉でした(鵜野讃良皇女は大津皇子の叔母にあたる)
神福山(じんぷくさん)山頂の祠堂(笹尾神社)
円錐型の山体をした神奈備山で過去には天狗峯と呼ばれていた
姉妹の父親は天智天皇であり、姉妹は揃って叔父にあたる天武天皇に嫁いだ。当時は、一夫一妻ではなく、母親が違えば、兄弟同士で結婚することもありましたし、叔父と姪で結婚することもありました
葛城修験の霊山の一つ
3年連続お札を収めておられます
大田皇女は早くに亡くなっており、姉弟はお互いを頼みとして生きていたのではないかと想像されます
沢山のお札が置かれていました
大伯皇女は673年4月に伊勢神宮に奉仕する「斎宮」に任命され、伊勢に赴きました。後に大津皇子は、禁じられていたはずのその場所へひそかに会いに行ったことがあります
楠木正成が築いた笹尾塞跡が残る
それぞれお気に入りの場所で昼食です
大伯皇女は、夜更けに都へ帰っていく弟を見送り、その場に立ち続けて明け方の露に濡れたという歌を残している
女子は話が尽きないようです
わが背子を大和へ遣るとさ夜深けて暁露にわが立ち濡れし
パワースポットなのかも
と詠んだ。たった一人の弟の行く末を案じる姉の姿が目に浮かぶようです
初参加組
日本書紀によれば、686年9月9日に天武天皇が崩御し、10月2日に大津皇子の謀反が発覚、翌日、死をたまわった。あまりにも早い処刑と、皇子に加担したとされた周囲の人々はほとんど免罪されたことなどから、天武天皇と持統天皇の子である草壁皇子を皇位につけるための策略であったとみられています
何を語っているのでしょう(^_-)-☆
日本書紀には、大津皇子は立居振舞が立派で、学才に秀でた優れた人物であり、日本の漢詩文の隆盛は、彼から始まったとも記されています。現存最古の日本漢詩集「懐風藻」にも優れた作品を残し、同書に載る伝記には皇子の死を惜しむ文言もみられます
男子は山頂の雰囲気を味わっています
だからこそ、万葉集に大津皇子にまつわる一連の歌々が収められたのではないかと考えられています
神福山は大阪50山、奈良百遊山に指定されている
大伯皇女は罪人の姉として斎宮を解任され、686年11月に帰京しました
山頂広場を後にします
以降、701年に没するまで史書に登場せず動向が不明でしたが、近年、飛鳥池工房遺跡から「大伯皇子宮」と書かれた木簡が出土し、帰京後も宮を営んでいたことがうかがえます
神福山を下りダイヤモンドトレールに戻ります
青文字は、奈良新聞「飛鳥学」より











