終末期を見送る言葉とは
怯懦へと響く東北弁
3月31日、四季の森公園の桜が満開になった
「人の心は一筋縄ではいがねのす」と宣言し「人の心には何層にもわたる層がある」という
18:10分、買い物ついでにカメラを持って出かけた
私は以前、宮沢賢治の作品を朗読するカセットを探し求め、とくに東北弁の部分に注目して聞いてきた
生駒山を望む所に犬養孝揮毫の歌碑がある
とくにあの「永訣の朝」を聴いた時は、賢治と妹・トシの交わす対話がこちらの胸の底にひびき、深沈とした臨場感があった
君があたり見つつも居らむ生駒山雲なたなびき雨は降るとも
あれは病に伏す妹に賢治が標準語で語りかけ、妹トシが花巻方言で応える形で進行する
訳:あなたの家のあたりをずっと見て居よう。生駒山に雲がかかり雨が降ろうとも
私が心を打たれたには、娘トシの死の床と、息子賢治の臨終場面での、政次郎の切迫した描写だった
6:30近くになると人の気配は少ない
政次郎は今や結核で死を迎えようとしているトシのそばに座り、小筆と巻紙を出して最期の「遺言」を求める
ほとんど独り占めだ
賢治は悲鳴をあげて押しとどめるが、この強い父は少しもたじろがない
桜をしみじみと眺める年代になったのだろう
最後に「さあ、トシ」といって迫る。普通では言えないことだからこそ、言い残せと政次郎は言いたかったのだろう
桜を見て居ると懐かしい人の顔が浮かんでくる
一方、賢治は遺言に「日本語訳の妙法蓮華経を1千部つくって、みんなに差し上げてください」と頼む
懐かしい人とはこの世でご縁を頂いた人たち
それを父がほめると「おらもとうとう、お父さんに、ほめられたもな」と話し、直後に逝く。その言葉の端々になつかしい方言の響きを残して・・・
鬼籍に入られた方、親交が遠のいた方、子供たちの幼少のころの姿が浮かんでくる
今日、この超高齢化社会を迎えたわが国の人々は、終末期の場面でどのような言葉で見送ろうとしているのだろうか。多くの医師たちは延命治療や安楽死については口を閉ざし、宗教家の多くもまた死にゆく者に引導を渡そうとなかなかしない
一番は親の姿なのだろうが、小生の両親は90過ぎてなお頑張っているので・・・感謝あるのみ
この賢治終焉の場面は、やはりわれわれの怯懦の心を打ち据えずにはおかないのである
(青文字は、奈良新聞「現論」山折哲雄より)











