奈良地方気象台は29日、奈良市内の標本木の観測をもとにソメイヨシノが満開になったと発表した。昭和29年の観測以降で3番目早い記録

桜が見せる「生と死」

いくたびも花ふらせゐる春の日の乞食あゆむ亡びし村を

闇夜に浮かぶ柔肌

屍骸となりゆくわれにふる花の山桜こそ遠く眺むれ

天守台ライトアップ

死に失せしひとさえもりをさまよはむ花びら白く流れくる日は

背景の天守台が薄暗くなってしまった

死にざまをさらにおもはじ咲きみちてさくらの花もゆふやみとなる

石垣

いずれも桜を詠った晩年の作品である

妖しい誘い

若き日の歌に「さくら咲くその花影の水に研ぐ夢やはらかし明日の斧は」の清涼な一首とくらべて、晩年のこれらの詠草は、そこはかとなく暗い

此岸と彼岸

「死にざま」を想定した死後の歌、あるいは生と死の原点を見据えたような詠みぶりである

闇夜に浮かぶ天守台

このように、桜の花は見る者の立場や年齢によっても大きく違うし、まして病床に臥すに作者にとって、満開の桜、はらはらと散る桜は自分が生きてきた「生」そのものを照射する

缶ビールと焼きそばを買い求め観桜

巡りくるもの、そして去りゆく立場にある自己の生を照射し、桜が咲き、散ってゆくまでの時間に仮託する

大阪の露天商で日本全国へ出かけるという

それを、悲しみと呼ぼう。さびしみと呼んでもいい

毎年この場所ですから来年も来てね、と言われた

だがどのような言葉や表現をもってしても、解りえないのが人間の生き死にの意味であり、「生きるとは何か」という、回答もなく、ほとんど意味もない「問い」にたいして、満開の桜だけが、やけに明るい

ぼんぼりに夜桜

「たえての桜」という小文の中で、前登志夫は次のように述懐している・・・続きは明日

青文字は、奈良新聞「明風・清音」・・・中井龍彦氏より