俳句「言葉の宇宙探訪」

松尾芭蕉の父・与左衛門は豪族の末裔とされ、武士に準ずる待遇の農民だから松尾の姓がある

田ノ浦・亀浦観光港

父は青年の頃、父祖の地、伊賀の柘植を離れて伊賀上野に移る

鳴門海峡を挟んで淡路島

芭蕉誕生の頃は普通の農民だった。母の名は不明だが、伊賀の国を治めることになる藤堂高虎の移封に従って伊予国から伊賀の名張に移り住んだ人の娘という

アクアエディで船酔いしました。海中もよく見えませんでした。大型観潮船「わんだーなると」に乗りたかった

芭蕉は次男坊。兄の半左衛門のほか、姉が一人、妹が3人いる

アクアエディは満席でした

本名は松尾忠右衛門宗房で幼名は金作。最初の俳号は宗房、後に桃青などと号して芭蕉となる

船底が海中に潜ります

伊賀上野は藤堂藩の支城がある城下町だ。芭蕉が13歳の時に父が逝く

狭く横向きでよく揺れました

そして藤堂家の伊賀付き士大将の藤堂新七郎家に住み込みで仕えたとされる

大鳴門橋

主人は当主の息子、主計良忠。芭蕉より2つ年長で俳諧に通じ、蝉吟の号を持っていた

はっきりとした渦潮は見ることが出来ませんでした

同世代の二人は主従ながら気が合って俳諧の仲間になる。蝉吟が催す座に連なったりして、ともに腕を磨いた

さすがに潮の流れは速い

一緒に京都の高名な宗匠、北村季吟に師事した

寄せては返す白波

青年芭蕉の最も幸福な時代だったかもしれませんね

アクアエディ定員42名

幸福は長く続かない。芭蕉が奉公に上がって4年、芭蕉が23歳のときに良忠が没する

芭蕉の末裔が伊賀上野でそば屋「松尾」を経営している。お母さんは口は悪かったが(心根はやさしい)、蕎麦は戸隠のそば粉を使っていて美味かった(30年前の話)。今は、息子さんが郊外で店をやっている(20年ほど行っていませんが)

わんだーなると定員395名