定年後の夕景

夕方になると目がひどく疲れる。春に信州佐久の総合病院を退職し、非常勤医師に

ダケカンバの大木群

36歳の時に芥川賞受賞(ダイヤモンドダスト)、37歳でパニック賞を発病し、やがてうつ病の泥沼にはまり、臨床の現場はもちろん、作家の表舞台からも降りざるをえない事態に陥った

風雪に耐えてきた

末期がん患者さんの診療を行いつつ文芸誌に小説を発表し続ける行為は、今振り返れば、おのれの技術、体力の限界を無視して北アルプスの険悪な岩稜地帯に足を踏み入れ、根拠なき楽観にそそのかされて歩いていただけであり、滑落事故はあらかじめ予想されていた喜劇でしかなかったのだとわかる

横に張り出した枝(よく支えている)

小説に関する浮かんでは消える泡のごとき想いをほったらかし、田園地帯を出ると空がいきなり広くなる

八方池の標高は2086㍍

稲穂の香ばしい匂いに包まれて西に向かえば八ヶ岳の峰々が左手すぐそこにある

レンズのシミが気になります(雨が浸み込んだのでしょう)

千曲川からひかれた水路の水音に背を押されて歩むと、夕陽が山に端に沈んで空が鮮烈な朱に染まり、ここまで「わたし」を生かしてくれたひとたちの居る西方浄土が現出する

不帰嶮、天狗ノ頭2812㍍

あえて手は合わせず、農道で顔をあげれば、ねぐらに帰り遅れたカラスが一羽、頼りない羽ばたきで低空を過ぎ行く

湖面に映る登山者と飯森神社奥社の祠

目の疲労がつのってくると視野がぼやけてしまう。そうなる直前に切り上げ、ザックをしょって病院の裏口から帰る

左は不帰ノ嶮1峰、キレット、天狗ノ頭をズームアップ

疲れた状態での頑張り仕事は良い結果を生まないことが良く分かっていた。非常勤医になって給与が少なくなったぶん、自由時間は増えた

ガイドのH氏(同級生です)

昼食を、前立腺肥大に効くとされるイソフラボンを多く含む豆乳を飲みつつ食べていると、意外なうまさや、期待はずれのそっけない味に驚かされ、毎日飽きない

白馬鑓ケ岳

夕方、裏口を出ると、千曲川に沿う道を北に向かう。正面に浅間山がそびえている

アカバナシモツケソウ

 

以前は年に何度も登った花の美しい山だが、2年前に噴火警戒レベルが上がってからは一度も行っていない

 

風が出てくると湖面の影が消えてゆく

 

そういえばもう何年も小説を発表していないな、と気づき、休日の増えたこの半年間に短編を書き始めた

いつからあるのでしょう?

初めての書下ろし短編小説集を編める枚数の四作品が完成し、何度かの推敲を終え、タイトルも決めた。小説を世に放つ業の深い仕事を遂行する胆力が衰えた。要は完成度に自信がなくなり、パソコンの中で眠らせている。この鬼子はいつ目を覚ますかわからぬが

ノコンギク

青文字は、日経文化「定年後の夕景」・南木佳士より抜粋