日本に今井町が残っていて本当に良かった
今井の町家
内部の道路で見通しのきくものはなく、ほとんどが一度屈折させてあります。これは敵の侵入に備え、その遠見、見通し、弓矢・鉄砲の射通しを不可能にするためでした
伝統的様式の町家は、切り妻造り、平入、前後庇付き本瓦葺き(または、桟瓦葺)が基本です
内部は、片側を通り土間とし、片側は床上の居室部となっています。正面からみると、出入り口を大戸構えとし、全面に様々な意匠の格子をはめ、上方「つし2階」にはむしこ窓をあけています
玄関に青ガメを飼っている家がありました。手を差し出さないように注意とありました
現在でも、伝統的な町家が6割を占め、その6割が独立型、4割が連続型で人々が住んでいます
今西家をはじめ、9件が重要文化財、3件が県指定文化財、6件が市指定文化財になっています
掟や御触れなどで、町家の造りは、厳しい規制がありましたが、町民たちは、その中で個性的なデザインを生み出しました
旧高市郡教育博物館(長く今井町役場として使用)
屋根の煙だし、鬼瓦、むしこ窓、壁面の意匠、「しもみせ、みせのま、みせおく」前面の様々な格子、出格子、駒つなぎ等、町民の美意識を感じます
橿原市出身・江戸時代の儒学者
今井町で街並みを守る運動が起きたのは、昭和30年ころです。昭和40年代には、全国的な大きな流れの中で、今井にも住民組織が結成されました
現在は今井まちなみ交流センター「華甍」として使用されています
昭和50年代~60年代には、住民と行政が一体となって、今井町のまちづくりの視点で調査や話し合いを繰り返すとともに、建物の修理、修景補助事業や歴史を生かした道路整備を実施しました
明治36年(1903)に建てられた社会教育施設です当時、帝国博物館(現 奈良国立博物館)に次ぐ建物でした
また、各種イベントや地道な活動により、平成5年には、重要伝統的建造物群保存地区に選定され、歴史的な町並みを生かした「まつづくり」を進めています
年譜
12~13世紀 高市郡今井庄が成立する
至徳3年(1386)興福寺領今井庄が文献に初めて表れる
明応年(1499)浄土真宗今井道場の存在が確認される
天文年間(1532~1555)東・西・南・北4町から成る今井寺内町が成立
元亀元年(1570)石山合戦が始まり、今井も本願寺に同調
天正3年(1575)今井郷民、信長軍に降伏
文禄4年(1595)太閤検地で今井村と記され、計6町を数える。家持466人、家数1200軒、人口4000人。慶長5年(1600)関が原合戦後、一時幕府の天領となる
元和7年(1621)今井兵部が今井の支配を命じられる
今西、尾崎両氏が惣年寄に指名される
寛永11年(1634)銀札(今井札)発行を許される
寛永16年(1639)惣年寄役に新たに上田氏を加える
延宝7年(1679)再び天領となる。今井町最盛期
人口4000人、家数1082軒
元禄10年(1697)この頃、金融業を営み大名貸をする者が多くなる
元文5年(1740)重税のため町民困窮し、この頃から戸口減少
町内に空き地が目立ち始める。今井町衰退の兆し
享和4年(1804)人口2795人、家数797軒
明治2年(1869)版籍奉還、高取県に属する
明治4年(1871)奈良県に属する。惣年寄今西氏が引き続き、市中取り締まりを命じられる
明治10年明治天皇が今井へ行幸される(称念寺行在所)
明治22年小綱と併せ今井町となる
昭和11年二上山地震
昭和30年(1955)東京大学により町家調査がお行われる
昭和32年(1957)今西家が重要文化財に指定される。今井町史刊行
昭和47年(1972)旧米谷家・高木家・音村家・中橋家・豊田家・上田家が重要文化財に指定される
昭和51年(1976)河合家が重要文化財に指定される
平成5年(1993)重要伝統的建造物群地区に選定される
平成14年(2002)称念寺本堂が重要文化財に指定される















