歴史に学ぶ
清洲会議で、勝家は信長三男・信忠を推したが、秀吉は嫡男信忠の子・三法子擁立、激しい対立が生じたが、丹羽長秀、池田恒興ら三法子擁立に賛成したため勝家も譲らざるを得なかった
勝家が強い警戒と敵意を抱いたのは、信長の葬儀の際、秀吉が政権樹立を正当化させようとしていることに気づいたからである
勝家側には、長宗我部元親、雑賀衆が、秀吉側には上杉景勝、高山右近、中川清秀、筒井順慶、三好康長、稲葉一鉄が与した
勝家は冬期は雪で行動が制限されるため一旦和睦、秀吉はこれを見抜き和睦を反故にして大軍を率いて長浜城、岐阜城を落とした
天正11年(1583)正月、伊勢の滝川一益が勝家への旗幟を明確にして挙兵、秀吉は京より大軍を率いて長島城を攻撃、一益は4月12日まで持ちこたえた
勝家は雪のため動くことができずにいたが、2月末しびれを切らして近江へ向け出陣した
3月12日、勝家は前田利家、佐久間盛政ら3万の軍勢を率いて余呉湖北に布陣を完成させた
秀吉は、長島城に1万の軍勢を残し、3月19日5万ともいわれる兵を率いて木の本に布陣した
4月16日、秀吉に降伏していた織田信孝が滝川一益と結び挙兵し岐阜城へ進出した
秀吉は近江、伊勢、岐阜と3方面作戦を強いられ、美濃へ進軍、これを好機と見た勝家は佐久間盛政に大岩山砦を襲撃させた
佐久間盛政は中川清秀を討ち取り、さらに岩崎山の高山右近陣を攻略、右近は木の本の羽柴秀長陣に逃れた
この成果を得て、勝家は盛政に再三撤退の命令を出すが、盛政は従わず、前線に軍勢を置き続けた











