2日正午ごろから吉野郡川上村方面に登山に出掛け、帰宅予定の3日になっても下山しない、と届け出があった堺市の69歳の男性が、5日午後、白鬚岳で死亡しているのを発見された。登山口から北東約2キロの登山道を、下に約200m降りた、高さ15mの岩の下にうつぶせに倒れていた。頭部に傷があり、岩場で滑落したとみられている・・・奈良新聞より

8日付奈良新聞・・・死因は全身打撲による出血性ショック死と発表(吉野署)

歴史は語る

織田信長の後継者をめぐり秀吉と勝家が対立。雪で閉ざされ身動きの取れない越前北ノ庄の勝家を尻目に、秀吉は着々と勢力を強めていた

雪解けを待っていた勝家は、ついに天正11年(1583)3月12日、余呉柳ケ瀬に布陣

両軍は木ノ本・余呉の山中に多くの砦を築城し、長期戦に備えた

その中で同年4月、秀吉は岐阜で挙兵した織田信忠らを討つため出陣した

そのすきに乗じて、勝家の家臣・佐久間盛政が秀吉軍の布陣の真っ只中の中川清秀が陣・大岩山へ奇襲をかけた

清秀は奮戦するも、味方の援護がなく大岩山は陥落

柴田軍が優勢に立ったかに見えたが、秀吉が大垣から52kmをわずか5時間で戻る

この「美濃大返し」と呼ばれる秀吉の戦略や、後に「七本槍」と呼ばれた兵の活躍で、勝家は越前へ敗走する

直ちに勝家を追った秀吉は、北庄城を攻め、勝家とお市を自刃させた

お市と三人の娘は秀吉に引き取られ、長女・茶々は秀吉の側室、淀殿となる

この合戦を機に秀吉は天下取りに大きく飛躍する

静かに水を湛える余呉湖は見飽きることがない