賤ケ岳7本槍「脇坂安治」
近江国東浅井郡脇坂野に居住していたことから脇坂を名乗る
権現峠:前田利家父子はこの峠を通り、柴田軍の戦線を離脱した
浅井長政に仕えたが、浅井氏滅亡後は織田家に属し、明智光秀の与力として功を立てる
賤ケ岳七本槍、本当は九本槍であった。もう二人は、石河兵助と桜井佐吉。しかし、石河兵助は戦死、桜井佐吉も戦の傷がもとで死亡
後に、木下藤吉郎に自ら頼み込んで家臣となる。三木城、神吉城攻めで功を重ね、天正4年に150石、天正10年に明石郡30石の加増をうける
毛受兄弟(めんじゅきょうだい):柴田勝家の家臣で、兄・繁左衛門、弟・庄助。敗色が濃くなったとき、勝家は討死覚悟で秀吉に及ぼうとした。毛受兄弟はそれを諫め、主君を北ノ城に返すために、勝家の馬標をかかげ「我、柴田勝家なり」と身代わりとなって奮戦した
天正11年(1583)、賤ケ岳の戦いでは戦功により山城国3000石を与えられた
わずか300余名の兵で秀吉軍を食い止めていたが、力尽きて林谷山砦で討死した
小牧・長久手の戦いの手柄で摂津国能勢郡1万石、大和高取2万石、洲本3万石が与えられた
秀吉は、敵ながら毛受兄弟の忠義心に心を打たれ遺体を丁重に埋葬し、遺族を厚く保護したと伝わる
今も全長寺が供養寺となり、地域の人々によって、弔い続けられている
横山半喜長隆:前田軍の撤退の際に殿をつとめた敵に囲まれ、余呉町中之郷の吉祥院の境内で自害した。子孫は加賀八家の一つとした前田家を支えていく
文禄の役では、主に水軍として活躍、慶長の役では蔚山城の戦いなどで武功を挙げ、3000石加増されて3万3000石の大名となる
黒田官兵衛:姫路生まれであるが、先祖は木ノ本町黒田で黒田氏を名乗る。6代・高政の時に備前へ移ったと言われている。官兵衛は9代目で秀吉の軍師として活躍した
関ケ原の戦いでは家康に与するつもりであったが、大阪に滞在していた時に石田三成が挙兵したため、やむなく約1000名の兵を率いて西軍についた
中川清秀:摂津茨木城主。佐久間盛政の奇襲にあい、奮戦したが力及ばず全滅した。砦跡には清秀没後100年に、子孫(豊後岡城主)の建立した墓がある
本戦では、藤堂高虎の工作を受けて他の3将とともに寝返り、平塚為広・戸田勝成軍を壊滅、佐和山城攻略にも参加
正面に勝家本陣を張った内中尾山(玄蕃尾城)、佐久間盛政が陣を張った行市山を眺望
戦前に通款を明らかにしていたため、裏切り者ではなく当初からの味方と見なされ、家康から所領を安堵された
廃館となったままの余呉湖荘(場所は一等地なのに)
慶長14年、伊予大洲藩5万3500石に加増移封された。翌慶長15年、大坂の陣では次男・安元が幕府軍として参戦、夏の陣では戦功を上げた
しばし湖畔で佇む
元和元年、家督を安元に譲って隠居、京都西洞院に住み臨松院と号した。寛永3年(1626)死去(72歳)
七本槍の中では最年長で最長生きでした
湖畔でマイナスイオンを満喫
Wikipedia参考











