賤ケ岳7本槍「平野長泰」

尾張国平野村生まれ。村名を姓とした

父・平野長治同様幼くして羽柴秀吉に仕えた

飯浦切通し:賤ケ岳と太平良山の鞍部。この切通しから余呉湖畔にかけて大激戦の地となった

福島正則、片桐且元らと共に格別の働きをして一番槍の功名を顕彰され、河内国3000石に知行を与えられる

田上山砦(323m):秀吉の弟・秀長の陣であるが、実質的に秀吉の本軍で規模が大きい。土塁、堀、郭などが残る

小牧・長久手の戦いで羽柴秀次が敗走した時に敵に突進して首級を挙げ奮闘した。文禄4年2000石の加増となり、大和田原本において5千石の知行を与えられた

堂木山砦:山路正国の砦で東野山砦とともに、北国街道を挟み込む位置にあり、神明山砦と一体となり柴田軍の南下を防ぐ役割をしていた

慶長5年(1600)、家康の会津征伐に従軍して、関ケ原の戦いでは東軍に属したが、徳川秀忠に従ったが、関ケ原の本戦には間に合わず目立った手柄を挙げることが出来なかった

神明山砦:秀吉軍の第一防衛線として、蜂須賀彦右衛門尉、木村小隼人が守っていた。黒田官兵衛も参戦した

慶長20年(1615)、大坂の陣では旧恩に報いようと豊臣方に合流しようと奔走したが、江戸留守居役を命じられた

東野山砦480m:勇将・堀秀政の陣、秀吉の高い築城技術を見ることができる

以後は波風を立てず旗本として、3代将軍家光の代まで長寿を全うした(69歳)

天神山砦・茶臼山砦:秀吉は最初ここに砦を築いたが、佐久間盛政が天神山を見下ろす行市山に砦を構えたため、放置し堂木山砦へ南下した

子孫は3代長政の代で血統は途切れ、他家より養子に入り明治まで存続し

玄蕃尾城439m:柴田勝家の本陣となった砦。多くの砦の中で、最も大規模で、発達した城郭を持つ。国指定史跡で秀吉軍の木の本方面がよく見渡せる

7人の中では一番地味で、あまり出世したとは言えませんが、旗本として明治まで残った

行市山砦659m:佐久間盛政軍7000人が陣を置いた。砦と砦の間には、道幅三間の軍道が作られたという

中国攻めをはじめ秀吉が行った戦にはほとんど参戦し、豊臣姓を与えられましたが、石高は増えませんでした

別所山砦:もと万福寺があったところで、前田利家・利長父子が布陣した

性格が荒々しくて、秀吉のいうことをあまり聞かなかった、石田三成と不仲であったことが理由かも

林谷山砦:原彦次郎の砦で、毛受兄弟はここの空堀に入り奮戦し、勝家の身代わりとなって討死した

福島正則、加藤清正、加藤嘉明は大名となったが改易され家名はありませんが、平野長泰は家名を残したことが一番の功績だったのではないでしょうか

狐塚:勝家は本陣を玄蕃尾城からここまで移動させた。現在は霊園となっている

茂山:前田利家の駐屯地で、柴田軍が移動しやすいよう、秀吉軍ににらみをきかせていた。しかし戦いの二日目、権現峠まで撤退した盛政軍を援護すべきところ、突然戦線を離脱したため、柴田軍は総崩れとなった

Wikipedia参考