賤ケ岳七本槍「加藤嘉明」

伊予松山藩、陸奥会津藩初代藩主松平家康の家臣であった加藤教明の長男として三河国で生まれる。父が三河で一向一揆勢に組して家康に背き流浪の身となり放浪

琵琶湖を背景に集合写真

その後、父は羽柴秀吉に仕え播磨攻めに従軍、秀吉は300石の扶持を与えて直臣とした

12:48分、下山開始

天正6年(1578)、嘉明は15歳にして三木城攻囲に初陣を飾り、2つの首級を挙げた

静かな佇まいの琵琶湖

天正10年(1582)、山崎の戦で功を認められ山城国300石加増される。賤ケ岳合戦では戦功を上げ3000石を与えられた

Y・Nリーダーのお陰で沢山写真が撮れます

天正14年(1586)、四国攻め、伊予国平定に参加、論功賞で淡路国志知城1万5千石の大名となる

アキチョウジ?

その後、九州征伐や小田原征伐などでは淡路水軍を率いて参加軍功を挙げる

ミズナラ群生帯

文禄の役では1000名を率いて出征、船大将・九鬼嘉隆に次副将格として淡路水軍を率いて転戦軍功を挙げ、伊予国正木で増封され6万石となる

小生が殿を務めましたので班編成なしです

慶長の役では6番帯に属して1600名(主に水軍)を率いた。軍功により10万石取りの大名となる。しかし秀吉が死去したため撤収となる

太平良山への登り

秀吉亡き後、加藤清正、福島正則、細川忠興、浅野幸長、池田輝政、加藤嘉明ら7将は三成殺害を企て、佐和山城へ蟄居させる

ヒノキに巻かれた青テープ

慶長5年(1600)会津の上杉景勝が謀反、嘉明が先鋒衆として従軍、この間に三成が挙兵

リーダーは今年11月に77歳を迎えられます

関ケ原の戦いでは、三成軍本体と戦って武功を挙げた。戦後軍功で10万石加増となり、伊予松山20万石となる

木漏れ日が眩しい

寛永4年(1627)、会津藩に移封43万5500石に加増され、本拠を若松城に移した

いつか訪ねたい山本山城跡、古保利古墳群

寛永8年(1631)、病のため死去(68歳)。子孫は江戸幕府の介入を招き、減封となり、近江水口藩2万石に封じられた