弓を見て見よ。敵がある時はこの上もなく重宝なものだが、国が治まっている時は袋に入れて土蔵に入れておく。わしはつまり弓である・・・福島正則

 

賤ケ岳七本槍「福島正則」

尾張国で生まれる。母は秀吉の叔母だったことから、幼少より秀吉に仕えた

天正6年(1578)に播磨三木城の攻撃で初陣を飾る(200石)

奥琵琶湖観光ボランティアガイドの山田哲氏

天正10年(1582)、山崎の合戦では勝龍寺城を攻撃するなど軍功を挙げる(500石)

分かりやすく合戦図が立てられています

天正11年(1583)、賤ケ岳の戦いでは、一番槍・一番首として敵将・拝郷家嘉を打ち取る大功を立て、七本槍の中で突出して5000石与えられた

余呉湖を挟んで両軍が対峙

小牧・長久手の戦い、根来寺攻め、四国征伐にも従い、九州平定に伊予今治11万石の大名に封じられた

耳を傾けるリーダーの則定画伯

文禄の役では五番隊の主将として京畿道の攻略にあたった。場門浦海戦では朝鮮水軍率いる李舜臣の敵船を焼き討ちし撃退した

文禄4年(1595)、秀吉の命により秀次に切腹の命令を伝えている。同年尾張国清州24万石の所領を与えられる

正面・内中尾山439m(柴田勝家本陣・玄蕃尾城跡)

手前・行市山659.7m(佐久間守政陣)

慶長の役には参加していないが、朝鮮半島に大軍を派遣して大規模な軍事行動を計画、石田三成、増田長盛とともに大将として抜擢されていた

30分ほどの解説でした(^_-)-☆

しかし、秀吉が死去すると、この計画は撤回され、日本軍は撤兵した

関ケ原の戦いでは、石田三成らと険悪になり盟友加藤清正らと共に光成を襲撃。徳川家康に慰留され襲撃を翻意。その経緯から家康の昵懇大名の一人となる

慶長5年(1600)、会津征伐に6000人を率いて従軍、その途上で光成挙兵の知らせを受けての小山評定では、いち早く家康軍に味方することを誓約、反転して西上、岐阜城を落とし、関ケ原では宇喜田秀家軍と戦い、宇喜田勢の進軍を防いだ

恒例の足固め式

大坂の陣では秀頼に加勢を求められたが拒絶

、一族の福島正守・福島正鎮は豊臣軍に加わった。正則は幕府には従軍も認められず、冬の陣、夏の陣ともに江戸留守居役を命じられた

大津から来られたグループの皆さんとエールの交換

元和5年(1619)、広島城の無断修繕が武家諸法度に違反すると問われ、安芸・備後50万石は没収され、越後魚沼郡・高井野藩4万5千石に減転封される

移封後、嫡男・忠勝に家督を譲り隠居、出家して高斎と号した。元和6年、忠勝が早世したため、2万5千石を幕府に返上。寛永元年(1624)死去(63歳)

Wikipedia参考