人は一代、名は末代、天晴武士の心かな・・・加藤清正

賤ケ岳7本槍で2番目に短命だったのは、通称「寅之助」こと加藤清正で、49歳で没

秀吉に従って各地で転戦して武功を挙げ、肥後北半国の大名となる

山頂手前の踊り場で休憩

関ヶ原の戦いでは東軍に荷担して活躍、肥後国一国と豊後の国の一部を与えられて熊本藩主になる

永禄5年(1562)、現在の名古屋市中村区生まれ。清正の母と秀吉の母は従姉妹同士

山頂直下の登り

秀吉が長浜城主になった時小姓として使え、秀吉に可愛がられた。清正もこれに応え生涯忠誠を尽した

賤ケ岳の戦いでは敵将・山路正国を打ち取る武功を挙げ7本槍の一人として3000石の所領を与えられた

山頂広場のトイレ

秀吉が関白になると、同時に従五位下・主計頭に叙任する

眼下に広がる余呉湖

正面の内中尾山に柴田勝家本陣、その左・行市山に佐久間盛政の陣があった

天正14年、秀吉の九州平定に従い、肥後国領主だった佐々成正が改易されると、これに代わって領主たなった(19万5千石)

山頂広場

山頂近くまでリフトで上がれます(冬場は運休)

肥後における藩政は良好で田麦を南蛮貿易の決済に当てるなど、治水事業だけでなく商業政策でも手腕を発揮した

武者の像

文禄の役では二番隊主将となり、先鋒で一番隊の小西行長と首都漢城の攻略を競った

一番奥に富士形の山本山が見えた(最寄り駅は北陸本線河毛駅)

漢城攻略後、三番隊の黒田長政、小西行長と共に北上し臨津江の戦いで金命元の朝鮮軍を破る

百名山「伊吹山」

文禄2年の第2次晋州城の戦いでも黒田長政配下の後藤基次と一番乗りを競い城を陥落させた

風化で字が読み取れない

慶長の役では(1597)、蔚山城に入場、朝鮮の民衆からは虎を退治した「鬼(幽霊)」と恐れられた

七本槍幟

慶長3年(1598)、秀吉が死去すると五大老の家康に接近、福島正則と共に石田三成暗殺未遂事件を機に家康への接近を強めた。関ケ原の戦いでは肥後で事実上の謹慎を命じられていた。慶長5年家康と秀頼の和解を斡旋、帰国途上の船内で発病し熊本で死去した(49歳)

三男・忠広が跡目を継いだが寛永9年(1632)改易となり、細川忠利領主となる。忠広は出羽庄内藩にお預けとなる。加藤家の家系は山形県酒田市などで続いている

Wikipedia参考