誰かが言っていた。賤ケ岳合戦は信長と勝家が戦ったと、七本槍の一人が前田利家であると。事実誤認も甚だしい!歴史は正しく語られなければならない
人工林に青いテープが巻き付けられています
クマやシカの食害や爪とぎから護るためとの意見が大半でした
佐久間盛政が柴田勝家の指示に従って退却していたら戦況も変わっていただろうに
石碑に文字が書かれているようですが全く読み取ることが出来ません
大岩が岳の砦が落ちたことを知った秀吉は、大垣から大返しで賤ケ岳に戻り佐久間盛政を攻め勝利した
そんなことを考えながらひたすら山頂を目指しました
木の本への分岐
この辺りから賤ケ岳合戦七本槍をご紹介しましょう
先ずは糟谷武則(1562ー1607)、45歳で没している。七本槍の中では最も寿命が短く、知名度も劣る
本能寺変後、秀吉の中国大返しと山崎の合戦に参加し、大徳寺で行われた信長の葬儀にも陪臣として参列
このような記録が残っていることは、秀吉家臣団の中で地位は高かったのでしょう
佐久間盛政の勇将・宿屋七左衛門を槍で突き伏せた。この戦功により播磨加古郡2000石、河内郡1000石遇わせて3000石を拝領した
その後、小牧・長久手の戦い、小田原征伐、文禄の役などに出兵。関ケ原の戦いでは七本槍の中では唯一西軍に加わりましたが、戦後、所領没収・改易となっている。豊臣家では文治派に属し几帳面な性格であったろうと言われている
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