佐久間盛政軍に奇襲をかけられ奮戦するも、味方の援護がなく大岩山砦は陥落、全滅した
中川清秀
清和源氏の一家系・摂津源氏の流れをくむ後裔。高山右近は従兄弟にあたる
中川清秀の墓
摂津で独立勢力としていたが、その後信長に降参し家臣となる
中川清秀の後裔が立てた墓・墓誌銘
信長の死後、秀吉に付き山崎の戦で大いに活躍したが、賤ケ岳の戦いでは先鋒二番手として参戦したが戦死(42歳)した
左右反転文字で書かれてある
家督は長男の秀政が相続、二男の秀成は豊後岡藩初代藩主となり、中川家は藩主として幕末まで存続した
秀吉は勝家軍が永陣の構えであることを知り、3月19日各所を巡見し、各要所に砦を築き、4月1日峰々の陣固めが終わると、大軍を狭い湖北に留めおくことはできず、頭分の侍少々と鉄砲の者を置き、総人数は銘々の領地に引き下がり、指示を待った
ケヤキの前で集合写真
4月8日には中川清秀も砦が出来たので、500~600名の兵を残し居城である茨木に帰っていた。そこを盛政軍の大軍に攻撃された
佐久間盛政の大軍を防ぐことは困難であったが、秀吉の指示によって築いた砦、一戦を交えずして退くは武士の本意に非ずとして、城を打って出て戦う決意をした
山麓から湖辺まで乱戦となり、兵力で勝る佐久間軍が城に火を付けた。これで中川軍が防戦に回った
遂に矢玉が尽きた
「われこそ中川瀬兵衛(清秀)なるぞ、我と思わん者はこの槍を受けて見よ」、これに盛政軍の近藤無一が一戦交え首を取られた
ところが首は弟の中川淵之助で、中川瀬兵衛は本丸に入り自害し果てたのである
中川清秀の遺体は下余呉土民たちによって谷間に降ろされ、上に柴をかけて隠まい守られていた。中川予備隊は土民の助けを得て亡骸を火葬し、戦士たちの亡骸は大岩山上に埋葬し塔をたてて供養した
供養に協力した土民12名は秀吉から恩賞を受け、以後今日に至るまで中川講を組織し中川家の供養を続けている
Wikipedia参考











