賤ケ岳兵どもが夢のあと

 

杉の木に青色のビニールテープが巻き付けられていた

皆さんの話では鹿の食害から護るためとの意見が多かったが、実際はどうなのでしょう?

誰かが山椒の木ですよと、幹に棘がいっぱい

賤ケ岳の南にある山本山城跡

平安末期に築城され、戦国時代は小谷城支城として阿閉氏が守っていたが、織田方に降り、結果浅井氏が籠る小谷城は孤立。本能寺変後は明智方となり廃城

清水山城跡:湖西最大の規模を誇り、織田信長が高島郡を攻略する元亀4年(1573)ごろまで存在していたと考えられている。土塁、曲輪、堀切、井戸などの遺構が残る

中川清秀の墓

近江百景「青嵐大岩山」

茨木城主であった中川清秀は3000人を引率、3月17日秀吉の前線視察と指示により大岩山240mに築城を開始した

4月20日早朝、勝家の甥・佐久間盛政が前線指揮し、大岩山を包囲殲滅、岩崎山を急襲し二城を陥落させる

「小早川文庫」に勝家の書状が残り、「敵の城二つ取る」とあり、西国に先制攻撃成功を宣言する

しかし佐久間盛政は大岩山一帯を占領し続けたものの、秀吉の追撃を受けて敗北する。地元では城山と呼ばれ当時の土塁が歴然と残っている

佐久間盛政は尾山(金沢)城主で行市山(余呉湖北側659.7m)に布陣していた

夜影に乗じ集福寺坂より塩津を経て権現峠を越えて川並みに至り余呉湖の南岸を迂回して大岩山の砦を奇襲した

勝ち誇った佐久間軍は勝家の帰参の命に随わず、余勢をかって賤ケ岳の砦に進撃し戦捷に酔った。この報せを知った秀吉は、急遽大垣より駆け付け賤ケ岳合戦になり秀吉軍の大勝利となり、柴田勝家滅亡の因となった