維新の記憶

幕末、幕府が新設した京都守護職に東国の雄藩、会津藩主、松平容保(かたもり)が任じられた

朝廷や西国諸大名の監視と京都の治安維持が主な任務で、容保は藩兵1000人を率いて京都に入った

4kmにも及んだというその行軍を、町衆は道の両側に人垣を作って見物、大歓迎する。会津藩がこの後、戊辰戦争で賊軍とされることなど誰も予想していなかった

天守の上空に青空が覗いた

会津藩が最初に本陣を置いたのが黒谷の金戒光明寺(京都市左京区)だ。京都御所まで2km、東海道の終着点・三条大橋まで1.5km

颯爽たる鶴ケ城

洛中を一望する小高い丘に立つ。高さ23mの巨大な山門を備え、堅牢な石垣に囲まれていた。これは一説に、市中の二条城の出城として整備されたからだという

鶴ケ城稲荷神社

「会津肥後様京都守護職努めます。内裏繁盛で公家安堵、とこ世の中ようがんしょ」こんな童謡が流行したと伝わる。会津弁っぽい語尾で京都は「よくなるでしょう」と期待を込めている

鶴ケ城とはよく付けたものだ

藩兵が市中巡回を始めると治安は良くなった。光明天皇は大いに喜び、後に自ら詠んだ和歌や、功労を評価する感状を容保に与えた。それらを武家に直接贈るのは異例中の異例だった

幕末京都の治安悪化は、逆説的に聞こえるが、朝廷に発言力が高まった結果だ。開国か攘夷かで激論が交わされ、幕府は朝廷に条約締結の勅許を求める

一方、政権参加を企てる有志大名は京都に藩邸を置き、朝廷に働きかけた。京都に集まった攘夷派浪士は天誅と称して幕府の役人や幕府寄りの豪商、僧侶を暗殺、鴨川に死体をさらした

水を湛えた濠

同志社社史資料センターの小枝弘和さんは「横行する暴力に対し会津藩兵大きな抑止力になった」と指摘する。「数や武備で劣る浪士らは震え上がっただろう

桜の古木

しかし、光明天皇の死で会津の運命は暗転する。軍事力で勝るだけでは政治は動かせなくなっていた

会津若松駅傍の富士の湯で汗を流し、駅舎内の十割手打ちそば「一會庵」で、会津でお世話になった皆様にもご参加頂き晩餐会を催しました

 

電車で郡山へ移動、薄皮饅頭などをお土産に買い、21:00発のギャラクシー号で帰阪しました。小生は京都6:20分に下車、一旦帰宅していつも通り出勤しました

大老井伊直弼の暗殺後、幕閣の力は弱まり、親藩から越前松平家の松平春嶽が政事総裁職に、一橋徳川家の一橋慶喜が将軍後見職に、そして会津松平家の松平容保が京都守護職に就く。打診を受けた容保は固辞するが、春嶽が3代将軍徳川家光の弟で会津の藩祖、保科正之が設けた「会津藩家訓」を持ち出す。「若し二心を懐かば即ちわが子孫にあらず」と将軍への忠誠を誓っていたのだ。容保は「君臣もろともに京都の地を死に場所としよう」との覚悟で京都に入った。事実、多くの藩士を失うことになる

5月27日11:02分、安達太良山頂に立つ 

(山酔会・齋藤槙氏のお陰です)m(__)m

連綿と続いた会津藩魂、身命を賭して日本のために尽くし、光明天皇の信任も厚かったのに、一転賊軍の汚名を着せられ、無念だったことでしょう

5月28日11:58分、会津磐梯山頂を踏破

(会津娘・渡辺祥子さん達のお陰です)m(__)m

 

今回の企画から、現地での段取り、ガイドさんの手配までお骨折り下さった川上孝一様、お陰様で思い出に残る一歩を記すことができましたm(__)m

青文字は、7月11日付読売夕刊「維新の記憶」より