忠義を尽したサムライの決戦地
幕末まで会津藩を治めた松平藩の基礎を築いた名君・保科正之とは・・・
2代将軍秀忠公の4男。幼名は幸松。母は秀忠公の乳母の侍女・お静。秀忠公の正室・お江の方は、非常に嫉妬深く、秀忠公に側室を持つことを認めなかったため、お静の方は秘かに男子を生み、武田信玄の娘の信松院や見性院に匿われて育てられました
鶴ケ城稲荷神社
7歳で信州高遠城主・保科正光の養子になり、21歳で高遠3万石、26歳で山形最上20万石、33歳の時に会津23万石の城主となりました
磐梯山は雲に覆われいて見えませんでした
会津藩の時には、年貢の軽減やわが国初の社会福祉制度「社倉制度」などの民政に力を注ぎ、会津藩の精神と行動の規範となった「家訓十五ケ条」を制定して幕末まで続く文武両道の会津藩の基礎を築きました
飯豊連峰も姿を隠していました
幕閣にあっては、四代将軍家綱の後見人として幕政に参与、玉川上水の開鑿(かいさく)や、後に「将軍家綱の三大美事」と高く評価された殉死の禁止などの実績を残し、武断政治から文治政治へと移行して徳川幕府の基礎を築きました
会津藩は三代藩主・正容(まさかた)から松平姓となり幕末まで続きました。保科正之は61歳でこの世を去りました
2日目に泊まった芦ノ牧温泉方面
慶応4年(1868)、戊辰戦争と呼ばれる、時代を変えた大きな国内戦争があった。鳥羽伏見の戦いに始まった戊辰戦争は、江戸城が開城し徳川幕府が倒れても戦いは終わらず東北に及び、7月29日二本松城が落城、籠城戦を強いられた会津藩も9月21日(新暦11月6日)降伏した
翌年3月函館五稜郭の榎本軍が降伏し、約1万人の戦死者を出した戊辰戦争は、事実上終結した
指さす先は磐梯山
現郡山市と猪苗代町の境界である母成峠には、この峠を守備する東軍(会津藩、二本松藩、旧幕府軍等)とこれを攻める西軍(薩長軍)との間で、構築した防塁、塹壕、砲台跡が今も整然と残っている
Y氏&Oさん
会津の地名の起こり:崇神天皇の御代、大毘古命(おおひこのみこと)と建沼河別命(たけぬかわわけのみこと)の父子の将軍を東に派遣、その二人が多くの川の集まる所(津)で出会ったので「相津」と名付けた(古事記)。西暦700年頃に今の「会津」になりました
麟閣
麟閣は小庵が蒲生氏郷のために造った茶室
千利休
千利休は氏郷の子・少庵を会津にかくまい家康と共に千家復興を秀吉に願い出た
鶴ケ城をバックに集合
その結果、少庵は京都に戻って千家を復興し、宗佐、宗室、宗守の3人の孫によって、表、裏、武者小路の3千家が興され今日の茶道の基礎が築かれました











