笑う人には福来る

子供が変わるように、親だって変わっていく

人間は誰しも祝福されて生まれてくる

「天知る地知る我知る」の教え

全力で信じてあげれば人は変わっていく

(高橋恵「幸せ」が集まってくる5つの習慣より)

橘諸兄の末裔について、一般的な始祖探しをする。清和源氏か桓武平氏かというたぐいのものだと受け止めている

奉納子供キリコ太鼓

10.文久2年(1862)秋のコレラ流行と八坂神社の創祀について

  キリコ祭りの起源説の口伝としてコレラが伝えられている

男は一人だけ

そしてコレラ流行を鎮めるため、キリコを担ぎ出すようになったと言われている

由緒ある屋根裏

例えば、文久2年(1862)秋のコレラ流行では、里村は八坂神社を創祀し秋祭りにキリコを出した

拝殿内には5台の御神輿と7人の宮司

明治12年にも流行しており、穴水町前波地区にある諸橋稲荷神社の秋祭りは、明治時代にコレラが流行し、悪病疫病の怒りを鎮めるために、キリコを担ぎ出すようになったと言われている

祭礼の前に

11.明治元年(1868)の由来先祖年号書上帳(中川貞麿神主)について

明治元年の由来先祖年号等書上帳は、明治政府の廃仏毀釈に対応するものとして、中川貞麿が作成し新政府に提出したのだろう

山耀会の玉串奉奠

歴代宮司を別記し、寛治5年(1091)に故・左門橘朝臣直榮寿清明(2代)から、現在の28代・直哉にいたるもの

3代~27代は別途記述する

小生が代表して奉納しました

 

 

12.明治20年(1888)6月の祭礼規定として水無月祭り「定」

明治初期の小学校建設と校下整備(明治22年頃)などで水無月祭りの最盛期を迎えて、統制が必要になり、水無月祭りの「定(明治22年)」が出来ている

一眼レフで画素数が高いので下が切れていたので、圧縮して再度貼り付けしました)

参加5ケ村の神輿やキリコ遊灯順番や配置、キリコの「トモ」という競い合いを定めている

皆さんは入り口で低頭・二礼二拍手一拝

13.大正11年(1922)6月に里の大火で6間余のキリコ消失

 大正11年6月の里の大火では、大正10年前後の電灯線による高さ制限があり、キリコの縮小化が促進している

参拝が終わると配置に戻ります

女将さんが参拝した後足の痛みが取れたと言っておられました

14.平成3年(1991)7月、奥能登広域圏無形文化財保存委員会の設置と実態調査

15.2015年の日本遺産の認定

雲雀の弟子ブログより・・・続く