乙巳(いっし)の変
物部氏を滅ぼした蘇我蝦夷と入鹿親子は、国中の民を集めて自分たちの墓を造らせるなど、その横暴ぶりは目に余るものがありました

 中臣鎌足連(なかとみのかまたりむらじ=後の藤原鎌足)は蘇我氏の専横を除き、君臣の別を弁えた秩序ある国にしたいと、中大兄皇子(天智天皇)が催した打毬の席で皇子に近づき、入鹿誅殺の計画を立て、その機会を待ちました
中山廃寺近くの田園地帯

皇極天皇4年(645)6月、皇子と鎌足は、佐伯連子麻呂と葛城稚犬養連網田の二人に剣を授け、天皇の前で上表分を読み上げる際に、入鹿の不意を衝いて斬るよう手はずを整えました
念仏寺付近集落にある分岐(後続をお待ちます)  しかし、子麻呂と網田は怯えて動けず、見かねた中大兄皇子が「やあ!」と斬りつけ入鹿を誅伐しました
分岐では逸れやすいので全員集合するまで待ちます  入鹿の死を知った蝦夷は、館に火を放ち一族ともに自害した
仲良くお手て繋いで  中大兄皇子は蘇我一族を一掃したあと、皇太子となり大化改新と呼ばれる行政改革の中心人物となり古代国家の基礎を形作りました
1人だと駄々をこねるところですが、お姉ちゃんや皆さんと一緒だと歩きたいようでした  白村江の戦いで大敗した後は、筑紫の国に水城や山城を築き、また大和の国に高安城を築くなど、国防にも力を入れました
石上神宮「楼門」  また近江に都を遷し、天智天皇として正式に即位すると「近江令」を制定、全国規模の戸籍「庚午年籍」の作成など次々に指揮し、日本の国家としての成熟度を急速に高めました
天理本通り商店街  壬申の乱
天智天皇は近江の都で病に倒れた際、大海人皇子(天武天皇)に皇位を授けたいと伝えましたが、大海人皇子は丁重に辞退し、皇位は皇后の倭姫王に譲り、天皇の息子である大友皇子を皇太子にするよう薦めました  
 大海人皇子は出家して隠遁することを願い出、許されて吉野へ出立しましたが、ある人はこれを評して「虎に翼をつけて放つようだ」と言いました。皇子の妻のうち、ただ一人付き従ったとされるのが鵜野讃良皇女(後の持統天皇)です
天智天皇は、この年の12月に崩御しました
石上神宮から2班に分裂しましたが無事、天理駅に合流することが出来ました

翌年、大海人皇子は近江の朝廷が自分の命を狙っているという情報を得て、6月に吉野を出て挙兵しました。宇陀から伊賀、鈴鹿と軍兵を集めながら進み、近江から逃れてきた息子たちと合流して美濃の国の不破に入り、赤い旗印の下で近江方と激しく戦いました
敗走した近江方の大友皇子は自害し、大海人皇子が勝利を収めました。この一連の戦いは古代日本最大の内乱で、壬申の乱と呼ばれています
17:30分、点呼を取り、全員の健闘を讃え解散しました
8:00分に桜井をスタートして8:30分の行程となりました
この後、構内にある中華料理店で打ち上げ会を行いました

 日本で初めて出家した3人の女性。善信尼(播磨の国、司馬達等娘=しまのたちとのむすめ)、善蔵尼(善信尼弟子)、恵善尼(善信尼弟子)
百済から仏像2体を請い受けた蘇我大臣馬子は、国内のあちこちに使者を使わして仏教の修行者を探させたところ、高麗(こま)の恵便という、僧から還俗した者をみつけた。
恵便を師として3人の女性を出家させました
(なら記紀・万葉名所図会参考)
長期連載、お付き合いくださいまして
有難うございましたm(__)m