あまくもにちかくひかりてなるかみのみればかしこみねばかなしも・・・作者不詳
雨雲の近くで光って鳴る雷のように、あの方にお逢いすれば恐れ多くて近寄れず、お逢いしなければ悲しいのです
12:00分、相撲神社で昼食タイムをとりました
土俵で四股を踏もうかと思ったのですが修理中でした
垂仁天皇の時代、大和の国当麻邑に当麻蹶速(たぎまのけはや)という者がいて、「剛力を誇り力比べの相手を探しています」と奏する者がいました。天皇はそれを聞いて、蹶速と互角に戦えるものを探し、推挙された野見宿禰󠄀(のみのすくね)を出雲の国から呼び寄せました。二人は向き合い戦い始めましたが、宿禰󠄀が蹶速のあばら骨を蹴り折り、腰を踏み砕いて殺してしまいました。宿禰󠄀は、勝った褒美として天皇から当麻蹶速の領地をもらい、以後、朝廷に仕えました。この力比べが相撲の起源だといわれています
三田から来られていたO氏が、夕方、用事があるとかで離班されました

神話から歴史へと移りゆく「日本書紀」の世界、大和の奥深さを体感できるのが山の辺の道です
卑弥呼も見たであろう大和盆地の風景
相撲神社の先に兵主神社があるのですが往復最低1時間はかかるので諦めました
穴師坐兵主神社:垂仁天皇2年倭建命が天皇の御膳の守護神として祀ったとも、景行天皇が八千矛神(大国主)を祀ったともいわれている。旧鎮座地は「弓月岳」であるが、比定地には竜王山・穴師山・巻向山の3説がある。鎮座年代は不詳である。摂社として、野見宿禰を祀る相撲神社があり、相撲の祖神として信仰されている
渋谷向山:古墳時代前期(4世紀後半)、竜王山から西に延びる尾根の一つを利用して築かれた前方後円墳。現在は第12代景行天皇陵として宮内庁が管理している。墳丘は全長300mで、前方部を西に向けていて古墳時代前期に築造されたものとしては国内最大の古墳
南西にある箸墓古墳は、孝霊天皇の皇女「倭迹迹日百襲姫命」、継体天皇の皇后・手白香皇女の墓に治定されているが、邪馬台国の女王「卑弥呼」の墓ではないかとも考えられている
日本書紀には、昼は人が造り、夜は神が造ったとの記述がある。倭迹迹日百襲姫命(ヤマトトトソヒメノミコト)は大物主神の妻となりました。通い婚で、男(三輪山)を一目見たいと夜にこっそり見たら、蛇が三輪山へ帰って行った。姫は吃驚して箸を大切なところに突き刺して亡くなったとの伝説から「箸墓」ともいわれている
7年前の発掘で大きな建物跡が出てきて、学会は邪馬台国説に傾いているとも
中国の正史である魏志倭人伝には記述があるのに、古事記、日本書紀には卑弥呼・邪馬台国の記述が一切出てこない不思議をどう説明するのか
倭国全体で長期間騒乱が起こり、そこで卑弥呼という少女を女王に共立することにより混乱を鎮めた。卑弥呼は238年以降、魏に使者を送り、皇帝から親魏倭王に任ぜられた。夫はなく、247年に死去。塚が造られ100人が殉葬された
その後、男王を立てるが、再び内乱が起き、卑弥呼の後継者である台与(とよ=宗女)13歳の少女が王に立てられ国は治まった、という
奈良県「日本書紀ことはじめ編」参考
雨雲の近くで光って鳴る雷のように、あの方にお逢いすれば恐れ多くて近寄れず、お逢いしなければ悲しいのです
12:00分、相撲神社で昼食タイムをとりました
土俵で四股を踏もうかと思ったのですが修理中でした
垂仁天皇の時代、大和の国当麻邑に当麻蹶速(たぎまのけはや)という者がいて、「剛力を誇り力比べの相手を探しています」と奏する者がいました。天皇はそれを聞いて、蹶速と互角に戦えるものを探し、推挙された野見宿禰󠄀(のみのすくね)を出雲の国から呼び寄せました。二人は向き合い戦い始めましたが、宿禰󠄀が蹶速のあばら骨を蹴り折り、腰を踏み砕いて殺してしまいました。宿禰󠄀は、勝った褒美として天皇から当麻蹶速の領地をもらい、以後、朝廷に仕えました。この力比べが相撲の起源だといわれています
三田から来られていたO氏が、夕方、用事があるとかで離班されました

神話から歴史へと移りゆく「日本書紀」の世界、大和の奥深さを体感できるのが山の辺の道です
卑弥呼も見たであろう大和盆地の風景
相撲神社の先に兵主神社があるのですが往復最低1時間はかかるので諦めました穴師坐兵主神社:垂仁天皇2年倭建命が天皇の御膳の守護神として祀ったとも、景行天皇が八千矛神(大国主)を祀ったともいわれている。旧鎮座地は「弓月岳」であるが、比定地には竜王山・穴師山・巻向山の3説がある。鎮座年代は不詳である。摂社として、野見宿禰を祀る相撲神社があり、相撲の祖神として信仰されている
渋谷向山:古墳時代前期(4世紀後半)、竜王山から西に延びる尾根の一つを利用して築かれた前方後円墳。現在は第12代景行天皇陵として宮内庁が管理している。墳丘は全長300mで、前方部を西に向けていて古墳時代前期に築造されたものとしては国内最大の古墳
南西にある箸墓古墳は、孝霊天皇の皇女「倭迹迹日百襲姫命」、継体天皇の皇后・手白香皇女の墓に治定されているが、邪馬台国の女王「卑弥呼」の墓ではないかとも考えられている日本書紀には、昼は人が造り、夜は神が造ったとの記述がある。倭迹迹日百襲姫命(ヤマトトトソヒメノミコト)は大物主神の妻となりました。通い婚で、男(三輪山)を一目見たいと夜にこっそり見たら、蛇が三輪山へ帰って行った。姫は吃驚して箸を大切なところに突き刺して亡くなったとの伝説から「箸墓」ともいわれている
7年前の発掘で大きな建物跡が出てきて、学会は邪馬台国説に傾いているとも
中国の正史である魏志倭人伝には記述があるのに、古事記、日本書紀には卑弥呼・邪馬台国の記述が一切出てこない不思議をどう説明するのか
倭国全体で長期間騒乱が起こり、そこで卑弥呼という少女を女王に共立することにより混乱を鎮めた。卑弥呼は238年以降、魏に使者を送り、皇帝から親魏倭王に任ぜられた。夫はなく、247年に死去。塚が造られ100人が殉葬された
その後、男王を立てるが、再び内乱が起き、卑弥呼の後継者である台与(とよ=宗女)13歳の少女が王に立てられ国は治まった、という
奈良県「日本書紀ことはじめ編」参考