三重の滝を拝みけることに尊くおぼえて、三業の罪もすすがるる心地しければ、身に積もる言葉の罪も洗われて心澄みぬる三重の滝・・・西行
 

 三業とは身業(身体的行為)、口業(言語表現)、意業(心意作用)を意味します

それが三重の滝の三にかけて浄められた
  特に和歌を詠む西行にとって口業=言葉は切実だったに違いない
 滝を拝むことによって心が洗われるのは現代人も同じ
 滝ばかりでなく、前鬼には喩えようのない美しい淵があり、心は透明にされる
 行場に入る時に渡る渓谷にある「垢離取り場」
 水の青さは、浅い所の黄味を帯びた輝きから、深い所の紺碧まで微妙に刻々と連続している
 
  淵ゆえに渓谷の激流の中で、そこだけ澄んで静かである
 一人で訪れた時、岩に座り、いつまでもその水の青さを見つめていた
 幸せな時間だった
 修験道は壮大な谷の中、窟、岩場、渓谷、森を行場とした
 前鬼裏行場の自然環境たるや、里の民からすれば限界そのものだ
 修験道というのは、深仙のごとき天空に近い峰の上に聖域を設定する一方、前鬼裏行場のように谷の奥深く霊域を発見する
 大自然に神を見た祖先の霊的感受性とその舞台設定、演出性に脱帽する
 16世紀に来日した宣教師たちはそうはいかなかった
 「悪魔に礼拝をなす者あり、これをなさんと欲するときは高山に登りて数日間悪魔を待ち受け、悪魔が彼らの望みの姿にて現るるにいたる」
 イエズス会士はバチカンに上記の報告をしている
 西洋人にはなかなか理解できなかったのでしょう
 峯入りも悪魔との交流会にされてしまった
 蔵王権現や不動明王が彼らには悪魔に見えたのでしょう
 
  浄土宗や禅宗に比べ、山伏は宗教者扱いされていない印象がある
「 熊野、修験の道を往く」・藤田庄市著参考