7月より職場が大和郡山に変わりました
これをご縁に折に触れて郡山の紹介をさせて頂きます
郡山城の濠と石垣
春は桜の名称として名高い

郡山城は西ノ京丘陵の南端部に築かれた平山城
天守台のある本丸を中心に、内堀、中堀、外堀によって囲まれた総構の構造を持っています
天正年間に大和の国唯一の城郭として築城を開始し、天正8年(1580)、筒井順慶が入城崩落の危険があり、工事中で立ち入ることが出来ませんでした
城郭の骨格は天正13年(1585)に入部した豊臣秀長によって形成されたと考えられています天守台から見る城内の満開の桜は実に素晴らしい
文禄4年(1595)に入部した増田長盛による外堀普請で完成した城郭の形状は、現在までその姿を良好に保っています10年ほど前の夕暮れ時、ここから眺めた夕陽は格別であった
関ヶ原の戦い後、一時廃城となりますが、大阪、京都に近い要衝として幕府に重要視され元和元年(1615)に復興
水野、松平、本多といった譜代大名が相次いで城主となりました楠木の大樹
享保9年(1724)以降、幕末まで柳澤氏による安定した治世が続き、江戸時代を通じて大和国の政治、経済の中心として栄えました柳澤吉保公も眺めたであろう
柳沢神社:御祭神は柳澤吉保公五代将軍綱吉公の幕臣となり、元禄元年一万石を与えられ側用人となる
英俊敏捷にして学を好み、綱吉公の意を良くとらえ、元禄7年には武蔵国川越城主で老中格となる
宝永元年、甲府城主となり10万石を与えられる民の疾苦を問い、強く仁政を施し、名士も多く、細井廣澤、荻生徂徠は最もよく知られている
吉保の子・吉里公が甲府より郡山に国替えとなり、柳澤藩が15万1千石の大名として6代140年、明治維新まで続いた宝永6年、綱吉公の死後、東京駒込(六義園)に移り隠退
正徳4年11月2日没す。享年57歳