桜を愛でるべし、鞦韆は漕ぐべし、愛は奪うべし
摩尼塔
「吉野より南に行くこと1日、更に西に向かって去ること2日程にして、平原の幽地あり。名付けて高野という」
弘法大師が高野山に道場を開きたいと、嵯峨天皇に送られた嘆願書の一節
空海は弘仁7年(816)密教修行の理想の場所として高野山の開創に着手しました
命をかけて真言密教の基盤を作り、承知2年(835)、永遠に人々に救いの手を差しのべるとの誓いを立てて此の地に入定されました
高野聖:中世に高野山を本拠とした遊行者
高野山から地方に出向き、勧進と呼ばれる募金活動のために勧化、唱導、納骨などを行った僧侶
ただしその教義は真言宗より浄土宗に近く、念仏を中心とした独自のものでした
以来、高野山は時代や宗派を超え、今なお篤い信仰を集めています
遊行を行う僧は奈良時代に登場したが、高野山では平安時代に発生
始祖は小田原聖の教懐、明遍、重源らが知られる
1200年の時の蓄積はまた、山上の地に「山の正倉院」とも例えられるわが国最大規模の仏教芸術の宝庫を形成しました
高野聖は複数の集団となって高野山内に居住したが、その中でも蓮華谷聖、萱堂聖、千手院聖の三集団が最も規模の大きいものとして知られる
皇族や武家など時の権力者をはじめ全国各地から寄進された約5万点に及ぶ品々は、信仰の歴史を映す鏡であり、かけがえのない文化遺産として、連綿と受け継がれてきました
こうした聖は高野山における僧侶の中でも最下層に位置付けられ、一般に行商人を兼ねていた
高野山開創1200年記念展
1章は「大師の生涯と高野山」で、若き空海の息づかいをも感じさせる出家宣言の書「聾瞽指帰(ろうこしいき)」や、恵果上人から密教の正統な継承者の証として賜った「諸尊仏龕(しょそんぶつがん)」などの遺品が展示されています
時代が下がると学侶方や行人方とともに高野山の一勢力となり、諸国に高野信仰を広める一方、連歌会を催したりして文芸活動も行ったため民衆に親しまれました
密教の教えは奥深いので、文字だけではなく、絵画や彫刻などを用いることが理解の助けにという言葉通り、造形を重視する密教では仏像や仏画が盛んに制作されました
八躯が勢ぞろいする、鎌倉時代の大仏師・運慶による「八大童子像」は必見です
しかし一部においては俗悪化し、「今宵の宿を借ろう、宿を借ろう」と声を掛けたため「夜道怪」(宿借)とも呼ばれた集団もあった
篤い信仰の歴史が生み出した多様な仏教美術
中でも快慶作の「四天王立像」は圧巻の迫力です
高野聖に宿貸すな娘とられて恥かくな」と俗謡に唄われていりのはこのためである
織田信長は天正6年(1578)に畿内の高野聖1383人を捕え殺害している
高野山が信長に敵対する荒木村重の残党を匿ったり、足利義昭と通じたりした動きへの報復だったというが、当時は高野聖に成りすまし密偵活動を行う間者もおり、これに手を焼いた末の対処だったとも言われている
江戸時代になって幕府が統治政策の一環として檀家制度を推進したこともあり、さしもの高野聖も活動が制限され、やがて衰えていった
往く春に高野聖の夢のあと
灌頂歴名:空海は書の達人としても良く知られています。自筆の「灌頂歴名」は国宝として有名で新しい考えをもたらしました
空海から最澄に充てた書状・尺牘(せきとく)が5通おさめられていたが、1通は盗難に遭い、1通は天正年間に関白豊臣秀次に所望され進上している
内容は最澄が空海に対し経典の借用や、真言の伝授を依頼、これらの来信に対する返書で、空海の真筆であることが確実なもののひとつである
摩尼塔
「吉野より南に行くこと1日、更に西に向かって去ること2日程にして、平原の幽地あり。名付けて高野という」
弘法大師が高野山に道場を開きたいと、嵯峨天皇に送られた嘆願書の一節
空海は弘仁7年(816)密教修行の理想の場所として高野山の開創に着手しました命をかけて真言密教の基盤を作り、承知2年(835)、永遠に人々に救いの手を差しのべるとの誓いを立てて此の地に入定されました
高野聖:中世に高野山を本拠とした遊行者
高野山から地方に出向き、勧進と呼ばれる募金活動のために勧化、唱導、納骨などを行った僧侶
ただしその教義は真言宗より浄土宗に近く、念仏を中心とした独自のものでした
以来、高野山は時代や宗派を超え、今なお篤い信仰を集めています
遊行を行う僧は奈良時代に登場したが、高野山では平安時代に発生
始祖は小田原聖の教懐、明遍、重源らが知られる
1200年の時の蓄積はまた、山上の地に「山の正倉院」とも例えられるわが国最大規模の仏教芸術の宝庫を形成しました 高野聖は複数の集団となって高野山内に居住したが、その中でも蓮華谷聖、萱堂聖、千手院聖の三集団が最も規模の大きいものとして知られる
皇族や武家など時の権力者をはじめ全国各地から寄進された約5万点に及ぶ品々は、信仰の歴史を映す鏡であり、かけがえのない文化遺産として、連綿と受け継がれてきました こうした聖は高野山における僧侶の中でも最下層に位置付けられ、一般に行商人を兼ねていた
高野山開創1200年記念展1章は「大師の生涯と高野山」で、若き空海の息づかいをも感じさせる出家宣言の書「聾瞽指帰(ろうこしいき)」や、恵果上人から密教の正統な継承者の証として賜った「諸尊仏龕(しょそんぶつがん)」などの遺品が展示されています
時代が下がると学侶方や行人方とともに高野山の一勢力となり、諸国に高野信仰を広める一方、連歌会を催したりして文芸活動も行ったため民衆に親しまれました
密教の教えは奥深いので、文字だけではなく、絵画や彫刻などを用いることが理解の助けにという言葉通り、造形を重視する密教では仏像や仏画が盛んに制作されました
八躯が勢ぞろいする、鎌倉時代の大仏師・運慶による「八大童子像」は必見です
しかし一部においては俗悪化し、「今宵の宿を借ろう、宿を借ろう」と声を掛けたため「夜道怪」(宿借)とも呼ばれた集団もあった
篤い信仰の歴史が生み出した多様な仏教美術中でも快慶作の「四天王立像」は圧巻の迫力です
高野聖に宿貸すな娘とられて恥かくな」と俗謡に唄われていりのはこのためである
織田信長は天正6年(1578)に畿内の高野聖1383人を捕え殺害している
高野山が信長に敵対する荒木村重の残党を匿ったり、足利義昭と通じたりした動きへの報復だったというが、当時は高野聖に成りすまし密偵活動を行う間者もおり、これに手を焼いた末の対処だったとも言われている
江戸時代になって幕府が統治政策の一環として檀家制度を推進したこともあり、さしもの高野聖も活動が制限され、やがて衰えていった
往く春に高野聖の夢のあと灌頂歴名:空海は書の達人としても良く知られています。自筆の「灌頂歴名」は国宝として有名で新しい考えをもたらしました
空海から最澄に充てた書状・尺牘(せきとく)が5通おさめられていたが、1通は盗難に遭い、1通は天正年間に関白豊臣秀次に所望され進上している
内容は最澄が空海に対し経典の借用や、真言の伝授を依頼、これらの来信に対する返書で、空海の真筆であることが確実なもののひとつである
