朝に三能の士を択び、暮れには万騎の筵を開く、臠を喫して俱に豁たり、盞を傾けて共に陶然なり、月弓谷裏に輝き、雲旌嶺前に張る、曦光山に隠れ、壮子旦留連す
上記は大津皇子の五言詩

端正な容貌で、朗々とした言葉。武を愛し、学を好み、衆望を集めていた
男性として満点に近かったのだろう
大和三山・大和青垣・大和盆地をバックに集合写真
鵜野皇后は、わが子草壁皇子に比べてあらゆる点において優っている大津皇子への憎悪も深かったことだろう三角点で恒例の足固め式
あしひきの山のしづくに妹待つと我立ち濡れぬ山のしずくに・・・大津皇子(おまえの来るのを待って、山の木陰に佇んでいた。なかなか現れないので、私は山の雫にびっしょり濡れてしまった)
我を待つと君が濡れけむあしひきの山のしずくにならましものを・・・石川郎女(私を待ってあなたが濡れたという、その山のしずくになってあなたの傍に居たいのに、なれなくて残念だ)
集合写真のシャッターを押して下さったご夫妻
大名児を彼方野辺に刈る草の束の間も我忘れめや・・・草壁皇子(大名児・石川郎女を、向こうの野辺で刈っている萱のつかの間ほどに、私はわすれるものか)
草壁皇子も情熱的な歌を送るが、石川郎女は何の返事もしていない山上の日時計
天武店天皇10年(681)、草壁皇子を皇太子とすることが宣せられた眼下に広がる大和平野
そして天武天皇12年(683)には、大津皇子が21歳に達したので皇太子と共に国政に参画する13:21分、昼食を終え雌岳下山開始
後継者を決めたことで、大津皇子の危機は去ったかに見えたが、天武天皇14年(685)老いた天皇が臥しがちになり、翌朱鳥元年(686)9月、ついに56歳の生涯を閉じると事は一挙に表面化する子供連れのハイカー
家でゲームをするくらいなら、はるかに良いと思う
「遊歩」参考