浄瑠璃の題材になっている井戸
 お菊井戸
  永正年間(1500年頃)、小寺典職の執権・青山鉄山が主家のっとりを企てているのを忠臣・衣笠元信の許婚で青山家に住み込んでいたお菊が探知し、元信に知らせて城主の難を救いました
 しかし、鉄山は浦上村宗らの加勢によって則職を追放し、一時主家を乗っ取りました
 村宗らを招いた饗宴の際、お菊を恋慕していた町坪弾四郎は家宝の10枚揃いの皿を一枚隠し、お菊を責め殺し井戸に投げ込みました
 その後、毎夜この井戸から皿を数えるお菊の声が聞こえたという
 やがて、元信らが鉄山一味を滅ぼし、お菊は「於菊大明神」として十二所神社の境内に祀られました
 戦国時代後期から安土桃山時代にかけて黒田氏や羽柴氏が城代になると、山陽道の交通の要所でもある姫路城は本格的な城郭に拡張される
 関ヶ原の戦いの後に城主となった池田輝政によって現在の城郭へとさらに拡張されました
 池田氏に始まり、本多氏、榊原氏、酒井氏、松平氏らが配属され、明治までの270年間に6氏31代が城主を務めた
 赤松氏から数えると530年間、13氏48代が城主を務めた
 明治に入ると陸軍の兵営地となり、多くの建物が壊されたが、陸軍の中村重遠大佐の働きかけにより名古屋城と共に国費によって保存される処置が取られた
 姫路城天守の置かれている「姫山」は古名を「日女路」の丘と称した