三碗の お茶を出されて 才みとめ

米原市太原「観音寺」・・・重要文化財

かつては伊吹山四大護国寺の一つで、正式には伊富貴山観音護国寺といいます

木造伝教大師坐像をはじめ、国の重要文化財を複数擁します

観音寺は秀吉が鷹狩りで立ち寄った際、寺の小僧をしていた石田三成と出会い「三碗の才」で見出したことで名高い寺です

その水を汲んだとされる古井戸は今も残されています

仁寿年間(851 -854)、三修によって創建された

もとは伊吹山四大護国寺として法相宗に属していたが、弘和(永徳)3年(1383)に天台宗に改めた

境内の惣門西側の池のそばには、そのお茶の水を汲んだと伝わる「石田三成水汲みの井戸」がある

重要文化財鐘撞堂

惣門、木造伝教大師坐像も重要文化財です

もと伊吹山にあった観音護国寺が、正元年中(1259~60年)に現在地に移転して、大原荘の地頭・大原氏の保護を受けながら、弘安年間(1278~88年)までに寺観を整えたといいます

寺の小僧だった三成が、鷹狩りで立ち寄った秀吉に茶を献じて、「三椀の才」で見出されたという逸話が残っています

九鬼家 歴史の荒波 越え明治へ

九鬼氏は、江戸時代には摂津三田藩主家と丹波綾部藩主家の2家が続き、明治維新後、両家とも華族の子爵家に列した

戦国時代初期、九鬼氏は伊勢北畠氏に仕えていたが、北畠氏の勢力範囲が弱まると、織田信長の幕下に入った

信長が北畠氏を侵攻した際、当時の当主であった九鬼嘉隆は織田勢を後ろ盾に、妻の実父である橘宗忠他、付近の小勢を制圧し、志摩国一円を手中に収めた

九鬼氏は信長の海戦部隊として伊勢長島の一向一揆の討滅戦において活躍、石山本願寺攻略戦において、第二次木津川口の戦いでは鋼鐵で外板を覆った鉄鋼船を用いて毛利水軍をことごとく追い払った

信長没後は織田信雄に仕えたが、蟹江城合戦にて秀吉方に寝返り、天正13年(1585)、従五位下・大隅守に叙位・任官された

九州征伐、小田原征伐に参加し、文禄・慶長の役では水軍の主力として功を挙げた

このような戦功の結果、気半島の制海権を与えられ、5万石の大名になった。この後、嘉隆は息子守隆に家督を譲って隠居する。こうした経歴から、江戸時代には軍記物などで海賊大名の異称をとった

石田三成挙兵の報を受け、家康の上杉討伐に参加していた九鬼守隆は急遽志摩に戻る。そして西軍方で桑名城に篭城した氏家行広らを破り、東軍最初の勝報を挙げた

 

 

一方で、三成に加担要請され西軍についていた嘉隆は、娘婿である堀内氏善と鳥羽城を占拠してしまう。この後、守隆と嘉隆は城外で合戦するも決着はつかなかった

しかし関ケ原の戦いでの西軍敗北が伝わると、氏善が逐電、嘉隆は退去、逃亡したため、騒乱は収束した

 

そののち、守隆は桑名城戦での功で鳥羽城を安堵された。また守隆は家康から嘉隆の助命の許しを得るが、その報を受け取ることなく嘉隆は逃亡先で自刃した

九鬼守隆は鳥羽城主として5万6000石を領したが、仏門に帰していた五男九鬼久隆を還俗させ、後継者にしようとしたところ、三男の九鬼隆季から猛反発をうけ、家督争いとなった。守隆の死後も家督争いは続き、1633年に江戸幕府により九鬼家は代々領土を守ってきた志摩国の領地を召し上げられ、久隆は三田藩3万6000石、隆季は綾部藩2万石に移された。いずれも海には面しておらず、これにより九鬼氏はその水軍力を喪失した

拝殿を 清掃手伝い 清浄に

上津尾社拝殿を掃除させていただきました

身も心も清浄になった気がします

敏達天皇媛皇子を祀る小社

社務所

奉納絵

広い境内を掃除するのは大変です

新潟県岩船郡桃川(現村上市桃川)

桃川藤氏正統畧

佐藤藏

佐藤耕太郎氏提供

吾佐藤氏ハ藤原姓為テ天御柱尊皇霊尊ヨリ神系連綿為テ天児屋命ニ至ル

則藤氏ノ租タリ御子藤原不比等公ヨリ分レテ吾佐藤姓ハ藤原姓ノ家系トナル

五世ノ孫一郎太良道 桃川神社 多伎神社 延喜式内旧社両社ノ神官トナル

正保元年本田能登太守ニ奉仕ス粟五十石五口ヲ泰フス