★「戦争を知らない子どもたち」だって「8月15日」は特別の日だ | ジャーナリスト 石川秀樹

ジャーナリスト 石川秀樹

ちょっと辛口、時どきホロリ……。理性と感情満載、世の常識をうのみにせず、これはと思えばズバッと持論で直球勝負。
3本のブログとFacebook、ツイッターを駆使して情報発信するジャーナリスト。
相続に強い行政書士、「ミーツ出版」社長としても活動中。



8月15日。この日はいつもセミしぐれと「うだるような暑い1日」という記憶がある。天皇陛下の玉音放送の“記憶”からの連想がそうさせるのだろう。しかし僕ら世代が“あの日”を知っているわけがないのだ。


何しろ僕らフォークソング世代は『戦争を知らない子どもたち』と呼ばれた世代だ。敗戦から4、5年たって僕らは生まれた。だから「8月15日」は特別な日でも何でもない。ただ夏休みの普通の1日にすぎなかった。“特別の日”に昇格したのはいつごろからだろう。


けさの朝日新聞、1面トップは「橋下新党旗揚げへ」だ。国会議員20人くらいから参加の打診があると言う。中段に「戻らぬ遺骨113万人」とある。海外・沖縄・硫黄島での戦没者240万人。その半数以上が帰国もならず野ざらしのまま…。


「終戦記念日」のニュースがトップを飾るのは各紙、夕刊からだろうか。この辺も最近、変わってきた。やはり風化だろうか。すくなくとも旧盆のこの時期、新聞は「あの戦争」一色に染まるのが風物詩だった。今年はさびしい。他に重大ニュースが多すぎるのか。


日本はおかしな国だ。殊に、今の日本という国は。怖いものは見ない、見てないものは知らない、知らないことには責任がない。よくも悪くも、関心はただ自分のことのみ。オリンピックの活躍には熱狂するが、それもただ一時期のこと…。


戦後世代の僕は、そんな日本のことを心底から批判する気はないかもしれない。自分もその一人だから。尖閣、竹島など熱狂して我を忘れる韓国人選手を冷ややかに見ている自分がいる。領土に沸騰する“愛国”を奇異なもの、危険なもの感じるのだ。


愛国心などというものを異物のように感じる感情は、戦後世代独特のものだろう。それは戦後67年間に渡りただ1つの戦争・紛争にも巻き込まれことなく平和が「もたらされた」結果と言える。まるで平和は自明のものとして在るような錯覚がある。


僕らは余りに無知だ。世間(世界)のことを知らない。学び損なっているのだ。戦争のことを。日本人がしてきたことを。よいも悪いも含めて、明治以降、近代日本が世界史に登場して何を成し、何をされてきたかについて、余りにも学んでいない。


朝日新聞に転載された地図(北は満州、南はボルネオ、シンガポール)を見て、僕は記事とは無縁の感想をもった。『なんと気宇壮大な企図だったことか』。誉めているのではない。荒唐無稽、誇大妄想とも言える戦線の拡大。しかし、こうも思うのだ…

hidekidos かく語り記


軍部や一部官僚、政治家たちが考えた大東亜共栄圏は、「外へ外へ」という時代の空気あってこその拡大戦略であったに違いないと。戦争の危険など顧みず、紛争で終わるとタカを括り、「局地戦など何ほどの事やある」の大楽観主義。旺盛な戦闘意欲。


戦後メディアは、悪玉・軍部、善玉・天皇側近、被害者・国民の安易な論に乗り「反省」ばかりを促すが、時代の空気を作った主役の一人は疑うべくもなくメディアである。メディア悪玉論を言うのではない。なだれを打って戦争に向かった歴史を指摘したいのだ。


世界で1000万人もの死者を出し、日本人の犠牲300万人。一方、日本人の加害行為で何百万人が殺されたのか。戦争以上に劣悪な災害などありはしない。自明のことなのに、誰もそれを止められない。人類の宿痾(しゅくあ・治らぬ病)と言うしかないかもしれない。


にもかかわらず僕ら戦争を知らない子どもたちは、学校で戦争の歴史を学ばなかった。幕末維新から昭和前期に至る近代日本の歴史を学ぶことなく僕らは育った。中学の歴史は明治まで、高校では日本の歴史は必修科目でさえなかった。


学ぶような空気ではないのだ。「日本史?めんどくせェーよ。地理の方がダンゼン楽だぜ」大学受験のテクニックの一つとしてしか「歴史」はなかった。だから韓国、中国の日本に向ける目の険しさに気づきもしない。歴史への無知は罪である! 恥ずべき怠惰だ!!


と、今さらながら僕は声を大にして自分の無知だった時代を恥じ、告白せざるを得ない。
「昔の日本人がやった行為の責任をなぜ今の日本人が負わなければならないのか」そんなことを思うほど僕らは幼稚だった。過去と切り離して今の国が在るわけではないのに。


しかし危うい。今の日本は。他人のことには無関心。まして過去の出来事など。「人がやった戦争だ」と、今は大多数がそんな風に思っているに違いない。「60数年たってもまた蒸し返される…」そんなイラつく空気が、嫌韓・嫌中感情として跳ね返る。


「あの戦争」に対して今は、生きている誰もが「リアリティー」を欠く「今」となった。戦争を直接知る世代は絶えつつある。戦争を知らない子どもたちだった僕ら世代も早(はや)、現役を退きつつある。「戦争の影」さえ見なかった世代が今は世の中心にいる。


広島、長崎の原爆投下は人類の犯した罪だ。30万人を死傷させた償うことができない犯罪。しかし、罪を糾弾する声は聞こえない。逆に被害者がヒバクシャとして差別されてきた歴史がある。そうやって当事者でない人々は直視できない事実を忘れようとしてきた。


フクシマも同じだ。「8.15」を人々が厳粛な気持ちで迎えるように、「3.11」も日本人なら同じ気持ちで迎える。昨年は「絆」が言われた。家族回帰だとも。「忘れない!」も同様に心に響いた言葉の一つ。本当にそうであってほしいと思う。


戦後68回目の暑い暑い「8月15日」を迎えた。ロンドン五輪が終わり、甲子園たけなわ。正午には高校球児も1分間の黙とうを捧げる。日本人にとって特別の1日。「忘れない!」「忘れてはいけない」日だが、本当にそうか。時の移ろいが今はほんとうに怖い。





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