円高がやまない。
けさ僕はツイッターで次のようなつぶやきをした。
友の薦めで久方ぶりにiPhoneアプリをダウンロード。
価格は170円。
んっ?こないだまで230円だったぞ。
他のアプリも105円だったのが85円に。
そうか、円高はこんなところにも影響するんだね。
一応、僕には恩恵。
制作者はがっかりだね。
■円高の効果はニュートラルのはずだ
急で過激な円高は、誰にとっても迷惑至極だろう。
新聞、テレビを見ている限り、誰もそんな風に思うはずだ。
だが、どうだろう。
結果はニュートラルなのではないか。
iPhoneアプリなどは瑣末な事例だが、実感としてよく分かるのだ。
僕も前の職場にいたとき、iPhoneアプリをいくつかリリースしているから。
当時、ドル表記で1.99ドル、日本円で230円だった。
それが170円になって、『そうか、うちの取り分、減っちゃったんだね』と思った訳だが、
買う側としては思わぬバーゲンセールではないか。
円急騰局面でいつもそうだが、メディアは常に日本を被害者のように言う。
輸出国たる日本は”被害”の方が多いだろうが、
輸入国たる日本は、それだけ安く物品が購入できる。
影響はニュートラルのはずなのだ。
それがことさらに「被害者」となるのは、主に輸出頼みの経済構造による。
円高の主因は米の債券不安、欧州各国の経済不振、金融緩和によるカネ余り…。
そこでリスクの少ない通貨として円が逃避先になっているからと言う。
僕なぞは「投機先」の間違いじゃないかと思ってしまうが、まあ、はた迷惑な話だ。
それで75円台にまで駆け上った円高で、国内産業が空洞化だ、
雇用がなくなると騒がれる。
雇用がなければ「買える人」が少なくなり、当然、景気も低迷する。
確かに大変な話。
輸入物価が下がるから「効果」はニュートラルじゃないか、なんて乱暴なことは言わない。
しかし「国内空洞化」は本当に悪なのだろうか。
■気宇壮大?拡大し続けた日本の版図
先日、中公新書で「マッカーサー」という本を読んだ。
その中で何より僕が仰天したのは、1枚の地図だった。
いわゆる昭和19年頃の「日本の版図」もしくは日本軍の展開地域を表したものだと思うが、
その領域の広さである。
南はサイパン、ボルネオ、シンガポール…
北は朝鮮半島を越え、満州、蒙古近辺まで…。
よくぞこれほどと、あきれ返るほどの膨張に次ぐ膨張だ。
当時の陸海空軍の展開力を考えれば、補給線は伸びきり、
制海権も制空権もほころびるのは必定である。
僕が言いたいのは、無謀な戦争だった、などと言うことではない。
善悪は度外視して(度外視できるわけもないが)
当時の日本軍の、というか、おそらく日本列島に満ち満ちていたであろう
政官財民・一般大衆のかもし出す空気の気宇壮大さだ。
無論、後から見れば無謀である。迷惑である。
300万人余の同胞の生命、それに匹敵する他国の人の犠牲者を考えれば、
戦争は巨悪そのものだし、政策の最悪の失敗だ。
一片の擁護さえする気にならない。
しかし、僕は歴史を学ぶことは非常に大切だと思っている。
特に幕末から明治、日清、日露と2つの戦争を経て、
大正、昭和へと移り中国との戦闘から太平洋戦争へ至る「近現代史」
これは、どれほど丁寧に教えても、教え過ぎということはない。
■戦前にはあった、「外へ」の空気
話が脱線してしまった。
言いたいのは、戦前には確かに「外へ」の空気があっただろうということだ。
「狭い日本にはあきあきだ」と中国大陸に渡った人…。
僕の知り合いでも、曾祖父がサイパン島で事業を興して成功し、
その娘(僕の知り合いの母親)は静岡に「留学」して女学校に通った、という人がいる。
もちろん、夢や希望ばかりではなかったはずだ。
それよりずっと以前にはブラジル移民があり、
昭和の満蒙開拓も結果としては大きな悲劇を生んでいる。
気宇壮大というより「侵略政策だ」と言う人もいると思うが、
国民の底流に「外へ」の意識がなければ、このような政策が生まれるわけもない。
今の日本は「閉塞社会」だと言う。
確かに明るさがない。
それは震災前、福島原発の事故以前から漂っていた空気だ。
留学志向が減っている、特に男子学生は…、と言われて久しい。
『こんな日本に居すくまっていたいの?』と思わないではないが、
人それぞれ、勝手ではあろう。
しかし、なんだろう、若い人たちのこの我慢強さは。
今から僕は、この国への悪口雑言を書く。
■日本への悪口雑言
震災復興に20兆円余の予算が必要だと言われる。
なのに政治は、この期におよんで「景気回復が先」だと、目先の痛みを避ける。
民主党代表候補に名乗りを上げている者たちも同様だ。
どこまで次の世代にツケを回す気なのか!
政治家が、ただ己の地位を守りたいだけのことである。
官僚の劣化も情けない。
明治国家は政治家とあいまって、官僚がつくりあげたと言っても過言ではない。
「有司専制」は政治を出し抜き、官僚が国を壟断(ろうだん)していると
マイナスのイメージで語られることが多いが、逆に言えば「我こそは」の気概である。
今の官僚はどうか。
「菅首相になってからやりにくくってしょうがない」
国を背負う官僚が何を言うか。
田中角栄元首相を伝説の人に担ぎあげ、「あの頃は…」などと語るのは卑怯である。
今やるべきことが山積しているこの時代に、官が起たずしてどうするか!
政官のていたらくをまともに批判できないメディアは劣化している。
つまらない揚げ足取りはするが、流れに抗して正論を吐き続ける姿なぞ、
ついぞ見かけなくなった。
教育の劣化もはなはだしい。
先日、「学校でわが子が殺される時代」と書いたら、烈火のごとく怒ってきた人がいた。
確かに過激な表現だが、いじめによる自殺をそのように表現するのは間違いだろうか。
教師の質などと批判する気は、いささかもない。
僕もまだメディアの中にいる人間。
この問題については、同様の責任がある。
今の教師、新聞記者も、質において以前に劣るとは思わない。
仕事にかける熱意において、先人にひけをとるとは思わない。
では、何が悪いのか。
ここまで書いてしまうと、「社会が悪いんだよ」と言いたくなってしまう。
社会が高度化・複雑化しているなどと言われると、進化しているように錯覚するが、
なーに、幼稚になっているだけじゃないか。
ここで「会社」という組織の劣化のことを書き始めると、
これはこれで、際限もない悪口になりそうだからやめるが、
今のサラリーマンで「会社にもの申す」などというリスクを冒す者はまずいないだろう、
とだけは言っておく。
それが今日ただ今の日本の閉塞状況を、なによりも雄弁に語っている。
■「海外へ」の志向を持てない社会は間違いだ
以上、お聞き苦しい悪口雑言--
自分だけ関係ない傍観者、批判者などとはこれっぽっちも思っていない。
僕自身の責任でもある。
だからこれから自分は何をするか、なのだ。
いろいろやりたいことがあって、早く会社勤めをやめたいとジリジリしているが……
今言いたいのは、とにかく若者たちに対しては「悪い社会、希望のない社会でご免なさい」。
こんなはずじゃなかったんだ。
国家としての政策の足りなさを言ってもはじまらない。
ただ、どうしても言っておきたいのは、
若者(に限らないが)が「外へ」の志向をもてない社会は間違いだ、ということ。
「円高だから産業が空洞化する」という表現も、負のイメージを強調し過ぎだ。
外に希望があるなら、意欲ある者、野心のある者は出ていくのが当然ではないか。
今のアジアで外への志向を持たないのは、日本だけではないか。
そういう空気にしてしまったのは、僕を含め、今生きている大人たち全員の責任である。
その中に、無論、若者たちも含まれる。
僕が若かった1960年代後半、
叫ばれていたのは「Angry young men(怒れる若者たち)」だった。
反体制運動はいつの時代、どこの国でも歩が悪い運動だが、
この日本でも、我を忘れて怒りをぶつけた時代があった。
無論、その参加者はきわめて少数者ではあったが。
円高は降ってわいたような「迷惑」だが、
ピンチと同じくらいチャンスもあるはず。
知恵と勇気と希望は、今の日本にもあるのだと、僕は信じている。

