新聞社の世論調査 「数字の操作」はあるか | ジャーナリスト 石川秀樹

ジャーナリスト 石川秀樹

ちょっと辛口、時どきホロリ……。理性と感情満載、世の常識をうのみにせず、これはと思えばズバッと持論で直球勝負。
3本のブログとFacebook、ツイッターを駆使して情報発信するジャーナリスト。
相続に強い行政書士、「ミーツ出版」社長としても活動中。



おっ、これはすごい。
『復興増税に6割賛成』日経新聞の世論調査。
前回調査では賛否が拮抗していたから、国民の理解が進んだのだろう。
しかし民主党内では反発を恐れて腰砕け。
よほど国民の方が腹が据わっている。



今週の月曜日(8/1)、僕は朝一番でこんなふうにつぶやいた。
「賛成6割」という数字に、本当に驚いたのだ。
2日前に「増税に及び腰の民主党代表選」について批判したばかりだったから。


以前ツイッターで「増税あるべし」とつぶやいたときの感触では、
増税論は3:7くらいで分が悪かった。
だから『ここへ来て、流れが変わってきたのか』の観が強かった。


ところがこの数字について、返信ツイートを見ると、
何やら「違う視点」で受け取られていることに気がついた。


日経の世論調査はあまり信用できない。
新聞社が行う世論調査を信じているのですか?これは、世論調査ではなく世論誘導です。
統計のサンプルの仕方が気になる。片寄ったり、少なすぎたりしないだろうか?実態を表しているか?



つまり「新聞社の世論調査」そのものに疑念あり、なのだろう。
これは由々しきこと、殊に僕は地方紙で長く世論調査を担当していたのでそう感じた。
この際、世論調査の実態について説明したいと思う。


■小選挙区制導入を機に、電話調査に移行

最初に僕なりの「結論」を言っておく。


世論調査する者は、絶対に数字をいじらない。
数字は正直だが、「解釈」「意図」が入り込むことはある。



まずサンプル数とサンプルの抽出について--
日経新聞は以下のように書いている。


調査は日経リサーチが、岩手、宮城、福島各県を除く全国の成人男女を対象に
乱数番号(RDD)方式により電話で調査した。有権者のいる1488世帯から
914件の回答を得た。回収率は61・4%。



この説明にウソはまったくないと思う。
以前は全国世論調査も有権者を対象に面接方式で行っていた。
しかし、小選挙区比例代表並立制に切り替わった1996年の衆院選から、
新聞各社は地方紙を含め、ほぼ電話世論調査に切り替えた。


面接調査を小選挙区で実施すると、コストがかかりすぎるからだ。
静岡県を例にとると、選挙区選挙は「3」から「9」に増えた。
コストは3倍。当時、世論調査の費用は数百万円かかっていた。
とても負担増に耐えられないので、共同通信社と共同実施していた地方紙は、
多くの議論の末、泣く泣く新しい方式「電話世論調査」に切り替えたのだ。


なぜ泣く泣くかと言えば、電話調査の精度にまだ自信がもてなかったからだ。
しかし、それは杞憂であることが、何度か調査していくうちに分かってきた。


■調査結果を左右する「聞き手」の聞く技術

続いて、調査方法のRDD(Random Digit Dialing)について--
ランダム ディジット ダイヤリング。
コンピューターで乱数を発生させ、無作為にダイヤルするという方式だ。
サンプルの取り方に疑問を持つ人がいたが、疑いは無用である。
ここに新聞社の恣意が入り込む余地はまったくない。


サンプル数は各社によって違うようだが、1500サンプルあれば
母集団の偏りはおおむねプラスマイナス4%内に抑えられる。
もっとも、同じ数字でも調査方法により誤差の幅に違いは出てくる。


例えば昼間、電話をかけるとする。対象者は不在。
その場合に、直ちに他のサンプルに切り替えてしまうやり方と、
夜またかけ直し、あくまで元のサンプルを追うやり方とがある。
当然ながら、後者の方が精度は高くなる。
前者のやり方では、サンプルが「昼間家に居る人」に偏るからである。


調査結果は、オペレーターの「聞き取る技術」にも左右される。
ベテランがていねいに質問すれば、答えてくれる確率は高まる。
不慣れな人、応答のまずい人が担当すると精度は下がる。


RDDと言っても、質問者も人間、回答者も人間。結果に差が出るのは当然である。
(最近は、本当に機械で質問する世論調査もあるようだ…)


■数字は客観的、読み方で各社の個性が出る

多くの人は、新聞社が数字を操作しているように思っているが、それは違う。
調査には最低でも、数百万円をかけている(1000万円超もザラにある)。
コストをかけて得たデータを、いじったりすれば「価値」はゼロだ。
ゆえに、そんなばかばかしいことを新聞社はやらない。


僕が担当した時代、数字を本社内で知っているのは(途中経過の数字を含め)
僕ともう1人の担当者のみだった。
調査中は、部長にもデスクにも、編集局長にも報告しない。


データが集計されて初めて、それをペーパーにして関連部署に配るのである。
全体集計だけでなく、男女別、年齢別、地域別にクロス集計もしてあるからデータ量は膨大。
それを要領よくまとめ、解説を加える。


担当記者やデスク、新聞社の恣意が入り込むとすれば、ここからである。
数字は客観的だが、数字をどう読むかは主観的と言えなくもない。
意図して曲げようとしなくても、記事に何らかのバイアスがかかることはありえる。


■8月1日の日経朝刊を例にとると…

具体的に言わなければ理解しにくいので、8月1日付けの日経新聞調査を例にとる。
1面に表などの形で示された数字は以下の通りだ。


菅直人首相の退陣時期(文中から抽出)
できるだけ早く       49%
8月末までに        16%
(他の数字は記述なし)

今後、原発を増やすべき 1%
現状維持すべき      24%
減らすべき         50%
全てなくすべき       21%

原発の再稼動について
定期検査を終えた原発から再稼動すべき 53%
再稼動すべきでない             38%

火力発電や自然エネルギーによる発電へ移行を進めた場合の電気料金値上げについて
受け入れられる   66%
受け入れられない  27%

復興のための臨時増税について
賛成だ        59%
反対だ        32%

※1面にはこのほか「菅内閣の支持率」の折れ線グラフが入っている。



上記の内容を、日経新聞では次のような見出しにした。


首相退陣「月内」65% (主見出し 太字ゴチック体)
内閣支持率20%割る (小さなかぶせ見出し)
復興増税に6割賛成 (袖見出し 明朝体)


■立ち位置によって変わってくる見出し

首相退陣時期を主見出しにしたのは、日経の姿勢からして当然だろう。
僕が「ホゥーッ」と思ったのは、復興増税に賛成派が多いことを見出しにとった点だ。
『そうか、日経さんは増税に賛成なのか』
そんなことを感じさせる見出しだった。


僕が新聞社だったらこう付ける。


「原発減らす・全廃」7割超す
3人に2人が脱原発電気料アップを容認
復興増税に6割賛成



つまり、国民の多くが脱原発を指向しており、そのための負担増をも容認している、
数字に現れたこの事実を前面に出す。


さて、この見出しは公平か。
微妙である。
もともとこの世論調査は、内閣支持率の推移を見るための定例調査と思われる。
定例項目に加え、さまざまな質問を追加して「時流」を探るというもの。
だとすると、日経の主見出しの方がオーソドックスだ。


僕のような見出しを付けるなら、定例調査と切り離し、別原稿を用意すべきだろう。
これを1面に持っていくか、2面以降で十分というか、
紙面のトップに出すか、もっと小さな扱いにするか、
そこに新聞社の個性が出るのである。


こういう作業を「恣意的」と言うだろうか。
恣意的と言えば恣意的だ。
しかしこの「恣意的」はあって当たり前であるし、あった方がいい。


■読めば読むほど「数字」はおもしろい

客観的であって当然の「数字」でさえ、各社同じとはならない。
力点の置き方の違いを「世論誘導」と言うかどうかは別として、
各社はそれぞれの立場で報道している。


だから、心ある新聞社は世論調査を報道するとき、
紙面のどこかにすべての質問と回答の数字を掲載する。
読者に生のデータを提示し、自分の目で判断してもらうためだ。


もっとも今回、日経新聞は「菅直人首相の退陣時期」について、
「できるだけ早く」と「8月末までに」の選択肢以外、載せていない。
他にどのような選択肢があったのか読者には分からない。


「早期退陣」を強調したくて他の選択肢を載せなかった、とすれば意図的ということになる。
しかし、その可能性は低いと思う。
他の選択肢への数字は少ないはずで、そんなものを隠しても意味がないからである。


本文中に掲載した数字なので、「うっかりしていて落とした」か、
「文章が長くなるから省略した」か
「記者は書いていたが、デスクか整理記者段階で削った」かのいずれかだろう。


こんな瑣末なことを書くのは、世論調査の記事は実に興味深いと言いたいからだ。
数字は何もいじらなくても、こちらが関心をもてばさまざまなことを答えてくれる。
同じ調査であっても、記者やデスクが違えば、見出しや記事がここまで違う。


■「情報」の真贋(がん)は読む人が判断を

新聞社などの大メディアが、何か数字をいじるのだろう、と思いがちなのはよく分かる。
しかし「数字をいじる」というのは、「事実を曲げる」ということなのだ。
記者は、そのことだけは断じて肯(がえ)んじないだろう。
自分を無とすることと同じだからだ。


長くなるのでもうやめるが、
新聞社などが主観をもつことは悪いことではないと、思っている。
先の見出しで示したように、僕のツイートも僕なりに偏っている。


だから、最後は読む側が判断するしかない。
この新聞は、あるいはこの人は信頼できるかどうか、
たとえ主張や考え方が違っていても、
「情報」として信頼できるかどうかは、読み続ければ分かる。


情報ソースの一つとして、僕は東京紙も地方紙も信頼している。




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