朝、長男と『植物はこの世界を認識するか』で、議論になった。
息子は目も耳も脳もない植物に認識できるわけがないと言う。
僕は断固として『認識している』。
庭の雑草さえこれほど精緻に生きているのだから…。
日曜の朝、僕はこんなツイートをした。
なぜこんなむずかしい話をしたのかと言うと…
それはきのう、ツイッターのネタにと、庭の雑草を撮ったからだ。
先日iPhone用のマクロレンズを買ったので、その効果を試してみたのである。
名前も知らない小さな青紫色の花が咲いていた。
写真にしてあらためて見てみると、
なんと精緻な形と色合い、可憐さであろう。
『自分を見ることができない植物が、どうしてこんな巧みな造形家なのだろう…』
息子に指摘されるまでもなく、植物には五感を感じるとる器官がない。
おまけに「認識した情報を受容する脳もない」と息子。
「待て待て、これほどの秩序を保持している以上、偶然であるはずがない、
植物には外界を認識するなんらかの機構があるはずだ」
で、先ほどのツイートになったわけだが、
僕のこの感覚、特異と言うほどのものではないらしい。
ツイートした途端、多くの人からこんな答えが返ってきた。
「モーツアルトを聴かせると植物の育ち方が違う」と言う実験データがあります。
「植物は人の言葉や周りの音や環境にとても敏感」
「危険を植物から植物へと知らせたりもするそうです」
「向日葵は太陽の方を向きますし、食虫植物は匂いで虫をよんで食べます。
花は受粉に虫を使い、蜂蜜を提供。コレで世界を認識していないって事はない」
そう、植物が世界を認識できるだろうというのは、多くの人が分かっているのだ。
だが、息子は粘る。
そこで僕は、最近読んだ本の受け売りをすることにした。
動物の五感に当たる器官は植物の成長点らしいよ。
葉や根や茎の成長部分で光や温度、いろんな物質を感じている。
さらに、植物は生存競争もしているそうだ。
樹木は、特殊な物質を樹下に撒き散らし、同種の植物の生長を阻止する。
木が生き残るには「場を優占する」ことが至上命題らしいぜ。
目が見えなくても、音が聞こえなくても、匂いを感知しなくても、
植物は「敵(同種の植物)」の存在を認識している、というのが僕の主張。
息子との議論はこれで勝ったようなものと思ったが、
「それでは、石はどうなの?」と来た。
無論、木石(ぼくせき)に、もとい、石に世界を認識できるはずがない。
しかし人間は、モアイ像などを見ると何か語りかけられているような気がするし、
お墓は? 確かに死者の声を聞くわけではないのに、
墓石を階段に使ったという織田信長の故事を聞くと、何だか後ろめたい気がする。
誰も信長ほど透徹した唯物論者にはなれないのだ。
「ほら、見えないものは見えないでしょ」
息子は、石や植物に何かを感じ取るのはアニミズムである、と言いたいらしい。
いやだいやだ、この子(と言ってもアラサー男だが)といると、話が理屈っぽくなっていけない。
そこで僕は話題を変えた。
「ところでさ、地球と同じような生命に満ちた星が他にあると思うかい?」
「地球の周りにはないね。人類が行ける範囲の中では」
なかなか冷静な答え。
「でも宇宙は無限だから、結局”地球型”の星は無限にあるだろうね」
この後、息子との会話は「イエスは人間か、神か」「神は実在するか」など
とりとめもなく進んでいったのだが、ここでは触れない。
ただ、懸命に話をしていて(きゃつは鋭い聞き手なので)
僕はだんだん「無神論者」でなくなっていくような気がした。
地球のように生命あふれる星の存在は、
無限の宇宙の中で極小の確率だ。
それでも息子が言うように、地球型の星はいくらでもあるだろうが、
人間が人間型の生命に出会う確率は、映画ほどには高くなさそうだ。
この宇宙の中で、地球はかわいそうなほど孤立した星。
そして、そこに生きるさまざまな生命も、地球の中で生きられるにすぎない。
99.9999999999999…%の非生命に囲まれた宇宙の中で、
まさにかけがえのない地球。
僕たちはなぜこの星に存在しているのだろう。
これほどの秩序、豊穣さ、生命や非生命たちが織り成す多様で複雑な活動…。
神がいないとしたら、僕たちは自分の存在を何と説明できるだろう。
植物の話から、とうとう最後は神の話になってしまった。
だから理屈っぽい息子と暮らしていると、疲れるのである。
【注】植物についての僕の知見は渡邊定元氏の『樹木社会学』による。
大部の労作を斜め読みしただけなので、理解力不足の可能性があります。