三島の「看板むすめ」 逝く | ジャーナリスト 石川秀樹

ジャーナリスト 石川秀樹

ちょっと辛口、時どきホロリ……。理性と感情満載、世の常識をうのみにせず、これはと思えばズバッと持論で直球勝負。
3本のブログとFacebook、ツイッターを駆使して情報発信するジャーナリスト。
相続に強い行政書士、「ミーツ出版」社長としても活動中。


けさ、三島の義母(はは)が亡くなった。91歳。奇しくも亡き夫の誕生日だった。仲が良いのにいつも義父(ちち)にはツッパていたけど、最期は迎えに来てもらったのかな。80歳過ぎても現役、たばこ屋の看板娘は、苦しむこともなく、あっさり旅立ってしまった。さみしいね…


さきほど僕はこんなツイートをした。


それまで涙も出なかったのに、書いていると、なんだか込み上げて来た。
ふしぎだね。


早朝、家内がお兄さんから電話をもらった。
珍しく大きな声で『エーッ』と言った。
前夜、おかあさんがよくないようだと聞いていた。
それでも、その声が最悪の事態を告げられてのものだとは思わなかった。


それだけ母の死は意外だった。
母はこれまで、何度も危難を乗り越えてきた。
気持ちの強さ、芯の強さは筋金入りである。


それも過信だったのだろうか。


確かに、異変と言えば『異変』はあったのだ。
昨春のこと、母が僕ら夫婦をはじめ、
熟年になりつつある子供たちを集め、
佐野美術館別邸で昼食会を催した。
何かの記念かと思ったが、食べて飲んだだけ。
何の開催理由もなかった。


そして秋、今度は伊豆長岡の旅館に招き、一泊で夕食会をやった。
卆寿でもない、やや中途半端な年齢の誕生祝い…。
翌日、一同で韮山の反射炉などを観光して三島に戻った。
後にも先にも、母と旅行したのはこれきりである。


何かを感じていたのだと思う。


家内も僕も、薄っすらと母の意図を感じた。
無事に年を越し、杞憂だったかなと思った。
しかし、年明け後、心臓病の悪化で母は入退院を繰り返すことになる。


そしてきょう……


母には恩義がある。
37年前、僕は同期入社した家内にひとめぼれした。
しかし彼女にはその気がない。
あきらめかけていたちょうどその時に、『風邪で休んでいる』と聞いた。
『しめた!』と思い、車を飛ばして三島の家に向かった。
たばこ屋の店先に座っていたのが母だった。


娘が乗り気でないのを知っていたのに僕を家に迎え入れ、彼女を呼んだ。


母はなぜか、初対面から僕の味方だった。


満州生まれの母は、そこいらの日本人とは違う。
高女時代はバレーボールに明け暮れ、信金に勤めてからはキャリアウーマン。
たばこは平気で吸うし、ファッションは最先端。
老年になってからも週に1度は美容院に出掛け、パーマをかけた。
今は金髪、時に鮮やかなパープルの髪色のときもあった。
それがよく似合っているのが母らしかった。


『女傑』と言うべきだが、僕にとっては普通のおふくろだ。
結婚する前から、正月には甘党の僕のために小豆のお汁粉を用意。
わがもの顔でそれに甘えていた。
なぜだろう。
相性としか言いようがない。


父の誕生日に母は逝った。
父と母の関係は、それはそれで一冊の本になるくらいのドラマがあるが、
お互い、すこぶる意地っ張りである。
しかし……


さきほど母の"専属美容師"のMさんが言った。
『お父さんは、自分が生まれた日に逝かれたんだよね』
ということは……
父は余りなし、きっちり誕生日まで生きて旅立ち、今度は律儀に同じ日に母を迎えに来た。


そして母は迎えに来るまで自発呼吸をし続け、父の律儀さに合わせていたのだ。


なるほどなるほど。
夫婦には見えない絆があるのだね。


母の顔はすこぶるおだやかだった。

☆ ☆
お父さん、お母さん、
今まで本当にありがとうございました。
そしてお疲れさま。
お二人で、今後の僕たちを見守ってください。




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