新聞よ! | ジャーナリスト 石川秀樹

ジャーナリスト 石川秀樹

ちょっと辛口、時どきホロリ……。理性と感情満載、世の常識をうのみにせず、これはと思えばズバッと持論で直球勝負。
3本のブログとFacebook、ツイッターを駆使して情報発信するジャーナリスト。
相続に強い行政書士、「ミーツ出版」社長としても活動中。

今度の地震で東北地方の地方紙各紙も被害を受けた。
仙台市の河北新報は発行不能の危機。紙齢を途切れさせなかったのは、
「あきらめない」という編集・制作・販売スタッフらの気骨と、
災害援助協定を結んだ新潟日報の献身による。
地元メディアもまた戦っていることを分かってほしい。



3月30日付けの静岡新聞朝刊を読んで、僕はこんなことをつぶやいた。

140字の制約の中で、紹介しきれなかった事実が数多くある。

記事を元に(この記事は共同通信の配信と思われる)簡潔にご紹介したい。


河北新報(本社・仙台市)では、新聞制作システムのサーバーが倒れ、編集不能に。
同社は記事を新潟日報に送り、紙面を制作してもらい、そのデータを受け取り印刷した。


hidekidos かく語りき-地方紙よ!


この記事には説明が必要かもしれない。

神戸の震災以来、地方紙各社は近隣などの新聞社と「災害時相互援助協定」を結んでいる。

新聞の発行号数を「紙齢(しれい)」と言うが、どんな時にも紙齢を絶やさないというのが

新聞社の誇りである。

(静岡新聞も、先の戦争で空襲の最中、新聞を発行し続けた)



1995年1月17日。

地震で本社の編集機能を失った神戸新聞は、夕刊発行不能の危機にさらされた。

そのとき助け舟を出したのが京都新聞である。

神戸新聞の編集記者がバイクで京都新聞に乗り付け、新聞の「題字」を届けた。

京都新聞の紙面をそっくり借り、題字を変えて、神戸新聞はからくも紙齢を守り抜いた。


新潟日報の高橋道映社長は、中越沖地震で多くの新聞社から支援を受けたことの
「恩返しだ」と、万全の協力を指示した。
「宮城 震度7」
地震発生から7時間後の午後10時、仙台駅前で号外が配られた。



地震発生から20日もたった今日の目から見れば、

「震度7」の見出しは、ちょっとピンボケに映るかもしれない。

しかし、新潟日報とのやりとりのタイムラグや情報確認の難しさを考えれば、

号外の主見出しに「津波」「原発」の文言がなくても仕方ない。

それより何より、あの困難の中で「号外」を発行した河北新報の心意気に打たれる。

合理的に考えれば、号外がなくとも地震のニュースは誰もが知っている。

それでも発行するのは「伝えたい」という新聞人の思いがあるからである。


山形新聞の制作センターも停電でストップし、新潟日報に印刷を打診。
快諾した新潟日報のトラックが山形まで無事届けた。
岩手日報も停電の影響を受け、隣県の東奥日報に朝刊の印刷を依頼。
4ページの新聞だが、「新聞社」の灯を守った。



地方紙は、全国紙ほどの経営余力を持たない。

ことにネット社会となった今日、広告収入などの落ち込みで体力を失っている。

大災害に対し、個々の社で万全の体制を築くほどの余力はほとんどない。

しかし、困難なときこそ「伝えなければ」の思いは強い。

地元のニュースを地元の自分たち以外の誰が伝えるのか。

その思いが、転ばぬ先の杖、多くの社をして災害援助協定を結ばせたのである。


津波で支局が壊滅した社もある。
原発事故に見舞われている福島民報と福島民友の2社は沿岸部の支社・支局を
本社に移し、取材を継続している。



僕の友人も、たぶん、この中にいる。

発災以来、不眠不休の毎日だろう。

それを思うと声を掛けにくく、いまだに連絡を取っていない。

しかし彼はやりぬくに違いない。

新聞を誰よりも愛している男だから。

僕が本当に伝えたかったのは、彼のような男たちの話である。


あえて僕は「男たち」と複数で書く。

地方紙各紙の猛者たちは、互いにライバルだったが、気持ちのよい“敵たち”である。

みな誇り高く、新聞をつくる仕事をあからさまに愛していた。

たまたま彼は地震に遭遇し苦労しているが、他の地域で大災害が発生していれば

他の連中も寝食を忘れて働き続けるに違いない。

地方紙は、そういう人たちで成り立っている。


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