昨夜は久しぶりに座禅。
荒村寺さんの夜坐に参加してきました。
以前に夜坐の事をここに書いた時
(その時のブログはこちら)
夜坐主催のちしょうさんから非思慮について頂いたコメントの中に添えられた記事
と
今月初めにここに書いた掃き掃除の記事
「お役立ちと欲望の隙間」
そして昨日の夜坐後の茶話会でいただいたお話し
参加者から
「色々悩んで心が固まってしまっている時
自分がそういう状態だと気付く事は出来るけど
その心を解放させる事ができないんだけどどうすれば...」
という質問に
自我と自然(ジネン)について説明してくれる智章(ちしょう)さん
自我、分識、意志、思考、意識、考えるて生きている事
と
自然、身体、肉体、生命体、考えずに生きている事
この二つを一度分けて考えてみる
例えばあかちゃん
自我も分識もない
生まれたばかりの赤ちゃんも、あるとき自我に目覚める
自分を意識し始め
自分と自分以外を認識し始める
例えば筋肉
随意筋と不随意筋がある
随意筋は自分の意志で動かせられるが
不随意筋は自分の意志では動かせられない
でも生きるために必要な事は不随意筋が支えている
(その場では話題に出なかったけど)
脳みそも大脳新皮質が意識でそれ以外は無意識だ。。。
人間は考える
人間には心があり
考えや心が自分を縛り付けてしまう事がある
心で縛られた鎖は心では解けない
意識で思考を解放する事はできない
硬直してしまった心(自我)を解放する事ができるのは自然ではないでしょうか
例えば不眠
寝よう寝ようと考えても余計に眠れなくなる
が
考える事をやめ日中太陽の下でクタクタになるまで動くと眠れる。
人間の体は疲れたら眠るようにできているんです。
座禅も然りで
やりかた(do)を求めるより
ありかた(be)を見つめる事が坐禅
そこまで聞いて
掃き掃除の記事の中で最後に書いた
「考えてる暇があったら動きましょか!」の一文を思い出す。
智章さんに
坐禅と掃き掃除の共通性を感じたと伝えると
チューラパンタカの話を見せてくれる。
うわ。
このチューラパンタカの話も先月読んだところだ。。
考えても答えが出ない事がある
意識ではどうしようもない事がある
坐禅に答えをもとめても
「理解」の中では収まらない事がある
僕がずっと思っている事
「悩んでる人は動いてない人、悩んでる時は動けてない時」
まさに。
だ。
そう、
結果を求めるなら考えるより動く事
考えても出てこない答えは感じると良い
ここでブッタとシッタカブッタの三つの話が浮かぶ
他人の定規にあてがう
「ほうがいい」「ねばならない」「べき」
な考えでは答えは得られない