私は源為朝(みなもとのためとも)の孫、里子(さとこ)です。
「日本一の不覚人!」
平治元年(1160年)12月26日早朝、源義朝(みなもとのよしとも)は藤原信頼(ふじわらののぶより)をそう罵倒しました。
信頼さん、信西(しんぜい)さんを討ち、政の権力を握ったよね
内裏から二条天皇(にじょうてんのう)と後白河上皇(ごしらかわじょうこう)がいなくなっていたのです。
二条天皇
二条天皇は平清盛(たいらのきよもり)の本拠、六波羅(ろくはら)に行幸しました。
すると、美福門院(びふくもんいん)や藤原摂関家(ふじわらせっかんけ)の忠通(ただみち)や基実(もとざね)親子も六波羅に集まりました。
清盛は官軍となり、信頼、義朝追討の宣旨が下されたのです。
帝と院がいなくなり、逆賊となったから義朝さんは信頼さんを「日本一の不覚人」と怒ったんだね
平家は重盛(しげもり)と頼盛(よりもり)の軍勢が内裏に攻めてきました。
重盛さんは義朝さんの長男、義平(よしひら)さんと一騎討ちで戦ったんだね
義朝は保元の乱では公的な兵の動員だったのに対し、此度は秘密裏の招集だったため、私的な兵力は少なかったのです。
清盛は内裏での戦闘を避けるため、平家軍をわざと退却させ六波羅周辺へ戦場を移したのです。
決心の覚悟で平家軍に挑んだが、源頼政(みなもとのよりまさ)の寝返りもあり、六条河原で敗退したのです。
義朝さんは兵も少なく多勢に無勢だったね
敗走する源義朝
敗退した義朝は味方が防戦する中、京から脱出したのです。
つづく












