今回は『猛将親父』のこぼれ話です。
その①
『猛将親父』の目次はこちら⬇️
毛利輝元
防長2ヶ国に減封が決定した後、輝元は出家、剃髪し、幻庵宗瑞(げんあんそうずい)と称した。
さらに家督を嫡男、秀就(ひでなり)に譲った。
毛利秀就
しかし、これは形式上のことで実質的な実権は握っており、秀就と二頭体制となった。
秀就さんが長州藩の初代藩主なんだ
慶長19年(1614年)、大阪冬の陣(おおさかふゆのじん)が勃発すると毛利は徳川(とくがわ)に従って参陣した。
さらに翌年の慶長20年(1615年)、大阪夏の陣では毛利秀元(もうりひでもと)を先鋒とした毛利軍が従軍した。
毛利家当主の秀就さんも出陣したけど、大阪城落城までに間に合わなかったんだ
ところで豊臣(とよとみ)方に参戦した中に佐野道可(さのどうか)なる武将がいた。
※画像はお借りしました
アップにすると…⬇️
(青の豊臣方の長宗我部盛親の隣りに佐野道可の名前があります。)
佐野道可は実は輝元、秀元の密命を受けた毛利家の重臣の内藤元盛(ないとうもともり)が変名したのであった。
元盛は軍資金と兵糧を持参し大阪城に入城したのであった。
大阪夏の陣後、京都で捕縛された元盛は取調べ担当の柳生宗矩(やぎゅうむねのり)から輝元の命で豊臣方についた疑惑を問い詰められた。
元盛は独断での行動と主張し、その後、自害したのだ。
これにより毛利家への嫌疑は不問となった。
元盛さんからすれば、輝元の命だったとは言えないでしょう
元盛が豊臣方に参陣したことを知らなかった吉川広家(きっかわひろいえ)や福原広俊(ふくはらひろとし)は激怒し、広家は家督を嫡男の広正(ひろまさ)に譲り隠居したのだ。
このことを佐野道可事件って言うんだよ
輝元は元盛の息子を自害させ、孫を幽閉したのだ。
輝元としては闇に葬ったのだ。
輝元や秀元は関ヶ原の戦いで徳川と戦わず、所領が減封されたことを内々には恨んでいたのでしょう。
大阪の陣で豊臣方が勝った場合、毛利の旧領を復活させる意図があったのでしょう。
明治初期の萩城
元和9年(1623年)9月、輝元は秀就に正式に家督譲渡した。
そして、寛永2年(1625年)4月27日、萩の隠居所で逝去した…
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