猛将親父・外伝〜広家の苦悩② | 歴史を感じよう

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日本史について感じたこと、調べたことを連載形式で書いていきます。また、神社やお寺、史跡巡りしたこと、プロレスについても書いていきます。わが愛犬てんのことも語っていきます。そして…「オイラ、えいたろうの相棒のコアラだよ。是非読んでね。」

コアラ『猛将親父』の目次はこちらだよ⬇️

吉川広家(きっかわひろいえ)です。


関ヶ原の戦いの後、毛利輝元(もうりてるもと)は領地没収の上、改易。

毛利家の領地の内、周防、長門の2ヶ国をわし(広家のこと)に与えるとの沙汰が来たのだ。

コアラ広家さんは毛利を守るために徳川に内密で通じたのは毛利家の領地安堵の約束を得ていたからなんだよ

毛利輝元



広家『これでは毛利が潰れてしまう!父、元春(もとはる)との約束が守れぬ…』




わしは命をかけて豊臣秀吉(とよとみひでよし)公と立ち向かった父と同じように徳川家康(とくがわいえやす)に向かうことにしたのだ。




10月3日、わしは家康に対し、毛利家存続の起請文を出したのだ。



私への御恩顧は後世まで忘れることはありませぬが、どうか毛利家の家名存続を残して頂きたく御願い申し上げます。
此度のこと、輝元の本意ではごさいません。輝元が分別のない人間であることは家康様もご存知だと思います。
輝元は今後は家康様に忠節を尽くしますから、毛利の家名をどうか残してください。
輝元が処罰されて、自分が取り立てられては面目が立たないので、輝元と同じ処罰を与えてください。
有り難く、毛利の家名が残していただけたら、輝元はこの御恩を忘れることはありませぬ。
万が一、輝元が徳川様に矢を向けるようなことがあれば、その時は本家であろうとも輝元の首を自分が取って差し上げます。



コアラだいだい、こんなことが書かれていたんだ


家康は家臣の井伊直政(いいなおまさ)、本多正信(ほんだまさのぶ)、さらに黒田長政(くろだながまさ)らから広家の起請文を渡され、

家康「広家は領地は要らぬと言うのか?」

直政「毛利を守るために命をかけておりまする。」

長政「関ヶ原で南宮山の西軍を抑えたのは広家の活躍あったればこそ。広家を死なせるわけにはいきませぬ。」

家康「…輝元が処罰されれば広家も死ぬと?」

正信「毛利には毛利元就(もうりもとなり)公が残した遺言がございます。"天下を競望せず…"と。その遺言どおり、毛利両川の吉川元春、小早川隆景(こばやかわたかかげ)も命をかけて毛利を守りました。」

毛利元就


家康「…広家を連れて参れ」




わしは家康に会い、起請文のことを再度、願い出た。


広家「私の命をかけて輝元は徳川様に忠誠を誓います。どうか、どうか毛利の家名をお残しいただきますよう御願い申し上げます!」


家康「広家…面を上げよ。」


わしは家康の目をじっと見た。



徳川家康


家康「広家、お前を信じるぞ。毛利の家名は残す。毛利は周防、長門の2ヶ国を安堵、輝元とその子、秀就(ひでなり)の安全は保障しよう。」


広家「あ…ありがとうございます!!」



わしは大きく頭を下げた。



家康はわしの側に寄ってきて、


家康「かつて亡き秀吉様がそなたの父、元春と最後に会った話をしてくれた。秀吉様は元春の気迫に押され負けたと言っておった…わしも今のそなたに同じものを感じたぞ…」


広家「…ありがとうございます。」





こうして毛利家は8ヶ国112万石から2ヶ国29万8千石と減封となったが家名は残った。


わしは移封後、毛利家の家政の第一線からは退いた。




吉川家は毛利家から岩国3万石の領地を与えられたが、毛利の支藩ではなく、家臣扱いとなった。


一方で家康はわしを大名扱いしてくれた。わしは微妙な立場ではあったが…



広家「……これでよい。毛利が残ったのだ。」






おわり




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