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吉川広家(きっかわひろいえ)です。
関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)は徳川家康(とくがわいえやす)率いる東軍の勝利となった。
西軍だった広家さんの軍勢が動かず、小早川秀秋(こばやかわひであき)さんの裏切りが東軍の勝利に繋がったんだよね
わし(広家のこと)は黒田長政(くろだながまさ)を通じて家康と内通していた。
黒田長政
内通したのは毛利家の所領安堵のため。
関ヶ原の戦い前、わしと毛利家重臣、福原広俊(ふくはらひろとし)は長政に毛利軍は戦闘不参加の誓いの書状を出し、徳川からは本多忠勝(ほんだただかつ)、井伊直政(いいなおまさ)からは所領安堵の起請文を受け取ったのだ。
戦後、大阪城(おおさかじょう)にいた毛利輝元(もうりてるもと)は、長政と福島正則(ふくしままさのり)から「輝元は名目上の西軍の総大将に担ぎ上げられたに過ぎないので本領は安堵する」との書状を受け取った。
毛利輝元
わしもこれを受けて安心した。
広家『これで元就(もとなり)公以来の毛利の所領を守ることができた。』
ところが…
10月2日、長政から書状が届き、
広家「…なんだ、これは…」
大阪城に西軍の連判状が見つかり、それには輝元の花押が数々とあった。これでは輝元は所領没収の上、改易になるだろう。貴殿の忠節は本多忠勝、井伊直政も承知しており、毛利の所領のうち、1、2ヶ国を与えるよう家康に交渉している。
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広家「これでは約束が違うではないか⁉︎」
わしは自らに所領が欲しくて関ヶ原の戦いを不戦したのではないのだ。
毛利家を守る、毛利本家を守るためだ。
その後、毛利家の所領安堵の約束は反故にされ、わしに周防、長門の2ヶ国を与えるとの沙汰があった。
つづく
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