吉川広家(きっかわひろいえ)です。
我が父・吉川元春(きっかわもとはる)は天正14年(1586年)11月15日に出陣中の豊前小倉城(ぶぜんこくらじょう)で亡くなりました。
この時、元春さんを初めとする毛利(もうり)軍は豊臣秀吉(とよとみひでよし)さんの九州征伐に参戦してたんだよね
「兄上…後はわしにお任せあれ!」
毛利(もうり)を支える毛利両川(もうりりょうせん)の元春がなくなり、残ったのは小早川隆景(こばやかわたかかげ)でした。
小早川隆景
九州征伐は翌年(天正15年)に豊臣秀吉(とよとみひでよし)本軍が参戦し、5月8日、ついに島津義久(しまづよしひさ)は降伏し、九州は平定されました。
島津義久
戦後、秀吉は隆景に筑前、筑後、肥前1群37万1,300石を与えました。
その代わりに伊予は取り上げとなったんだよね
しかし、隆景はこれを辞退しようとします。
隆景「我が毛利の所領は既に8ヶ国に及んでおり、これ以上の領地は十分に治めることはできませぬ。」
隆景は毛利家当主・毛利輝元(もうりてるもと)がまだ若く、元春も無く、輝元から離れることを恐れていたのだ。
隆景『わしが殿(輝元のこと)を離れてしまえば、毛利を支えることが疎かになる。父・元就(もとなり)、2人の兄・隆元(たかもと)、元春に申し訳が立たない。』
毛利隆元
隆元さんは輝元さんのお父さんなんだよ
それでも秀吉は辞退を許さず、筑前、筑後を領し、在国することになったのだ。
秀吉としては隆景を独立大名として豊臣政権に組み込みたかったのだ。
天正17年(1589年)、隆景は筑前の名島城(なしまじょう)に入城した。
名島城跡
その後、隆景は秀吉の小田原攻めにも従軍。
さらに文禄元年(1592年)の文禄の役(ぶんろくのえき)にも6番隊として1万の軍勢を率いて出陣しました。
文禄の役って秀吉さんの明、朝鮮半島に侵攻のことだね
豊臣政権に尽くす隆景でしたが、あくまでも毛利本家のためだったのです。
文禄3年(1594年)、あることが毛利の危機となっていた。
輝元の後継ぎのことである…
つづく
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