チャレンジ国際プロレスを語る〜ヒロマツダ離脱 | 歴史を感じよう

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日本史について感じたこと、調べたことを連載形式で書いていきます。また、神社やお寺、史跡巡りしたこと、プロレスについても書いていきます。わが愛犬てんのことも語っていきます。そして…「オイラ、えいたろうの相棒のコアラだよ。是非読んでね。」

旗揚げ第2弾のパイオニアサマーシリーズが終わった国際プロレスには莫大な負債が残った。


コアラ日本プロレスとの大阪での興行戦争にも負けたんだよね



この負債処理を巡って社長の吉原功さんとヒロマツダが対立したのです。




吉原さんは自宅を担保に金を都合しましたが、マツダの負担は十分ではなく、これが揉める原因となったのです。



マツダとしても安いギャラでリングに上がり、外人レスラーのブッキング料も取らなかったなど言い分はあったのでしょう。



ちなみにマツダの後輩のマティ鈴木も600万円を負担していました。





コアラマティ鈴木さん、後に全日本プロレスにもフリー参戦して馬場が初めてNWAを獲得した時にセカンドについていたね。中央でバンザイしてるのがマティ鈴木さん、馬場より目立ってる。



マツダが国際プロレスを離脱するわけですが、もう一つ離脱の要因があります。それはエディグラハムがフロリダマットの日本支部として国際プロレスを乗っ取ろうとしていた計画が頓挫したから、グラハムの手先であったマツダとしても国際プロレスにいる意味がなくなったのです。



エディグラハム




マツダとマティ鈴木は国際プロレスを離脱。




しかし、悪い話ばかりではありませんでした。


ついにTBSが国際プロレスのテレビ中継にGOサインを出したのです。


実はTBS以外にフジテレビも中継にGOサインを出していましたが、吉原さんはTBSを選び、1967年9月11日に契約を終結したのです。



コアラやっとテレビ局がついたね




ところで吉原さんは資金調達のため、TBSの森氏の紹介で広島の乳業会社の岩田氏に国際プロレスの株を譲渡し融資を仰いだのだ。


この結果、岩田氏が国際プロレスの新たなオーナーとなり、TBSがバックアップして国際プロレスを仕切り直す形になった。




ここで離脱したマツダに変わり、外人レスラーのブッカーに選ばれたのが…



グレート東郷だった。






つづく





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