国際プロレスは1967年8月14日に大阪府立体育館の興行を発表しました。
国際プロレスは旗揚げ第2弾のパイオニアサマーシリーズの興行のひとつだね
ところが国際プロレスの発表に対抗して日本プロレスが大阪球場での興行を発表したのです。
大阪球場と大阪府立体育館は近いんだよね
日本プロレスは興行戦争を仕掛け、国際プロレスを潰しにかかってきたのです。
日本プロレスのメインのカードは
インターナショナルヘビー級選手権
60分3本勝負
ジャイアント馬場
(王者)
vs
ジン・キニスキー
(挑戦者)
なんと当時のNWA世界ヘビー級チャンピオンのキニスキーが挑戦者だったのです。
この試合は馬場さん、キニスキーがそれぞれ1本取った後、時間切れ引き分けとなり、異例の5分間延長を行い、これも引き分けとなりました。
馬場さんがこの試合を自身のベストバウトと後に語っていました。
かたや国際プロレスは、
60分3本勝負
ヒロマツダ
サム・スティムボード
vs
ビル・ドモロ
ロジャー・カービー
「大阪夏の陣」と話題を呼んだ興行戦争。
日本プロレスは飛行機からのビラ巻きを行なうなど営業力を使い、2万人もの観客数でした。
国際プロレスは4,200人…興行面では惨敗でした。
ところで日本プロレスにはジン・キニスキーと一緒にNWA会長のサム・マソニックも来日していました。
マソニックさんはプロモーターなんだけど、会長時代にNWAは最大の勢力だったんだよね
8月15日、アメリカのラスベガスでNWA総会が開かれ、日本プロレスのNWA加盟が認められたのです。
国際プロレスをフロリダマットのエディ・グラハムがNWA加盟申請を出していましたが…結果は却下となったのです。
マソニックはグラハムの計画を知りながらも、日本プロレスと国際プロレスを天秤にかけていたのでしょう。
日本プロレスは日本テレビで中継もしてたから、力の差は歴然としていたからね
旗揚げ第2弾のパイオニアサマーシリーズが終わり、国際プロレスには負債が残りました。
この負債の処理を巡り、吉原功さんとヒロマツダの間で亀裂が生じたのです…
つづく
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