チャレンジ国際プロレスを語る〜リキスポーツパレス問題 | 歴史を感じよう

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日本史について感じたこと、調べたことを連載形式で書いていきます。また、神社やお寺、史跡巡りしたこと、プロレスについても書いていきます。わが愛犬てんのことも語っていきます。そして…「オイラ、えいたろうの相棒のコアラだよ。是非読んでね。」

力道山は生前、リキスポーツパレス

という総合スポーツレジャービルを東京は渋谷に建てました。



コアラ渋谷に建てるってお金かかるよね〜



リキスポーツパレスのメイン施設であるホールはプロレス会場だったのです。



これは日本初のプロレス常設会場でした。


コアラ3000人入るんだって



リキスポーツパレスは力道山個人の不動産会社「リキ・エンタープライズ」の所有でした。


1961年に完成したリキスポーツパレスでしたが、1963年に力道山死後に力道山が残した借金で担保にされていました。



そこで当時、日本プロレスの取締役営業部長である吉原功さんが「リキ・エンタープライズから日本プロレスがリキスポーツパレスを買い取るべきだ」と主張したのです。



吉原さんとしては常設会場を失うべきではないと思ったのでしょう。


吉原さんは資金集めのため、スポンサーを連れてました。


コアラ後の新日本プロレス全日本プロレスも常設会場はなかったね



ところがこれに否を唱えたが日本プロレスの取締役経理部長である遠藤幸吉でした。




遠藤は「吉原は資金を集め日本プロレスを買収しようとしている」とデマを吹聴をして妨害をしたのです。



この時期、豊登が日本プロレスを退社(実際は追放)し、アントニオ猪木さんや若手レスラーを引き抜き東京プロレスを設立しており、日本プロレスの幹部らは過敏になっていました。




さらに遠藤は力道山の名前を消したがっていました。


遠藤は力道山を嫌っていたのです。


コアラ昔はタッグを組んでチャンピオンにもなったのにね




結果、吉原さんのリキスポーツパレス買収話は潰されてしまいました。




1966年10月に吉原さんは日本プロレスを退社したのです。


退社前から吉原さんは新たなプロレス団体設立に動き出していました。



新たな団体のエースに据えようと吉原さんが接触したのがヒロマツダだったのです…





つづく





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