3人は馬場さんに煙たがられてたんだよね
その後の3人はどうなったのか?
日本プロレス残党9人が全日本プロレスに参戦した時、全日本プロレス所属ではなく、日本テレビとの3年契約があり、全日本プロレスに派遣という形であった。
離脱した3人は契約上、国内にある新日本プロレス、国際プロレスには参戦できませんでした。
韓国に帰っていた大木は契約違反を犯して新日本プロレスに参戦。
アントニオ猪木さんとの対戦は名勝負ですね。
その後、新日本のワールドリーグ戦などにも参加。
商品価値が上がったところで馬場さんは大木を全日本プロレスに再び参戦させ対戦しました。
上田馬之助と松岡厳鉄は海外に活路を求めましたが2人は海外で決裂。
上田は海外で活躍。日本テレビとの契約が切れた1976年に国際プロレスに参戦。
ラッシャー木村からIWA世界ヘビー級王座を奪取しました。
この頃、髪が金髪と黒髪が混じっていたのでまだら狼って呼ばれたんだよね
その後、新日本プロレスに参戦しタイガージェットシンとのタッグでも活躍しました。
上田と別れた松岡は海外では活躍できず、帰国しプロレスを廃業したのです。
日本プロレスの幹部であった遠藤幸吉は、新日本プロレスを中継番組「ワールドプロレスリング」の解説をしたり、猪木vsルスカのレフェリーをしました。
レスラー時代にはドロップキックの名手だったのに…ダラ幹のせいか太ったね
遠藤は日本プロレスの経理を行なっていたはずだが、日本プロレス崩壊時は何をしていたのだろか?
社長である芳の里は日本プロレスを畳んで、ライバル団体であった国際プロレスのテレビ解説をしたり、
右端が芳の里さんだね
全日本プロレスで鶴田vs木村、馬場vs木村の試合のレフェリーをしました。
芳の里は日本プロレスの残務整理が終わった後、事務所に残っていた日本プロレスの社員バッチを集めて持ち帰り、自身が亡くなるまで持っていたそうです。
地上波放送が2局、しかもゴールデンタイムに放送され華やかなだった日本プロレス。
最後はテレビ局に振り回され、さらには選手会に振り回され崩壊した…と感じました。
終わり
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